四国遍路 第三回
第一回 2015年4月29日〜2015年5月15日
(17日間)
第1番霊山寺〜第37番岩本寺
第二回 2015年9月17日〜2015年9月25日
(9日間)
第38番金剛福寺〜第44番大寶寺
第三回 2016年10月20日〜2016年10月29日
(10日間)
第45番岩屋寺〜第69番観音寺
第四回 2017年10月10日〜2017年10月16日
(7日間)
第70番本山寺〜第88番大窪寺・延暦寺まで
10月20日(木)長崎から松山へ

 今日から約一年振りで3回目の「区切り遍路」を再開しました。前回の遍路の後にさいたま市から長崎市に転居したので今回の遍路は長崎からの四国入りとなりました。長崎駅前バスセンター発午後3時45分発の小倉駅行きの高速バスでJR小倉駅に移動しました。この高速バスは約3時間で長崎駅から小倉駅まで低料金で旅行できる大変お得な交通手段です。この区間は嘗て「長崎街道」として九州の玄関「小倉・門司」から海外への玄関「長崎」に至る重要な経路でした。しかし現在では航空路が発達して「福岡市」が九州の中心都市として発展してきたので「小倉⇔長崎」の利用客はそれ程多くないです。小倉からは小倉駅北側の小倉港から出発するフェリーで松山に移動しました。

このフェリーは「小倉→松山・松山→小倉」間を「毎日1便」運航しているもので、九州から四国に直接「渡る」重要な交通手段のひとつとなっています。小倉港は小倉駅から新幹線で九州各地と結ばれているし、四国側の松山観光港からは松山市中心部へ「リムジンバス」が頻繁に走っていて松山からは四国各都市と高速道路が結ばれています。松山行きフェリー「はやとも」は想像していたより大型船でした。フェリーの旅は随分前に「仙台から苫小牧」に家族旅行した時以来でした。当時は「船旅」のチャンスは殆どなく大変興奮した記憶があります。しかし今は思いがけなく「船」で生活することになったので「船上生活」は珍しいものではなくなっています。

     
小倉港停泊中の「はやとも」        船内の遍路用品売り場

フェリー内の売店には「四国遍路用品一式」が揃うコーナーを設置されていました。九州からの遍路客がこのフェリー内でお遍路の道具一式を揃えることができるようになっています。松山に辿り着けば高松・高知・徳島に向けて高速バスが頻繁に走っていますので「区切り遍路」には好都合です。フェリーの重宝な設備として「お風呂」があるのですが、仕事の疲れが溜まっていたようで大部屋の幅の狭い布団に横になった途端に眠ってしまいました。フェリーが出発したことにも気づきませんでした。

〇高速バス 長崎1545→小倉1853(3600円)
   〇フェリー 小倉港2155→松山観光港翌日0500(5450円)
 宿泊:フェリー内客室 歩数:17,719歩

10月21日(金)久万高原から出発

フェリー「はやとも」は朝5時に松山観光港に到着しました。フェリー到着に合わせて5時15分発で松山市内に向かうリムジンバスが走っているので、このバスに乗ってJR松山駅に向かいました。松山駅からは前回打ち止めた「第44番大寶寺」のある「久万高原」までバスで移動するのですが、久万高原行き始発バスの発車までは大分時間があるので松山駅を散策してみました。JR松山駅は四国の中心都市の玄関とは思えないほど小振りで昔風の建物です。駅舎内の待合室がギャラリーとなっていて台北の「松山駅」の写真が掲示されていました。台北の松山駅は「台北松山空港」の地下に設置されている駅で「松山」という名称から今年(2016年2月)から日本のJR松山駅と友好協定を結んだのだそうです。台北の松山空港は太平洋戦争直後にインドの独立の英雄「チャンドラ・ボース」が飛行機事故で亡くなった場所だということで、以前から興味のある場所でした。 

  

前回遍路では第44番大寶寺まで打って区切りました。従って今回の出発点は大寶寺のある久万高原です。松山駅から路線バスに乗って再出発点の久万高原にある久万中学前バス停まで移動しました。JR松山駅からの久万高原へ向かう始発バスには10人前後の遍路客が乗っていました。バスが松山市の山間部に入っていくに従って中学生らしい乗客がどんどん乗ってきました。「久万中学校」の通学エリアは随分広いようです。中学生でほぼ満員になった乗客の殆どは「久万中学前バス停」で降りました。

    
県道12号線を出発        岩屋寺・大寶寺分岐点

久万中学前バス停に隣接する伊予鉄久万営業所前から今日の歩き遍路が始まりました。まずは県道12号線の舗装道路で大寶寺方面に向かいます。途中に第四十四番大寶寺と四十五番岩屋寺への分かれ道がありました。大寶寺からそのまま遍路道を進むとここに出てくるのです。県道12号線を1kmくらい歩くと遍路道は本格的な山道に入っていきました。久しぶりの山道でみが引き締まる思いがしました。再び県道に戻った整備された遍路道を歩いていると、突然私の前方50m位の所に女性遍路が現れました。私は県道を歩いてきたのですが、彼女は地図には載っていない古い遍路道を歩いてきたようです。この女性遍路のペースが速いこと。荷物を宿に置いてきているらしく軽装であるいてこともあって私にはとても追いつけないような速さでした。(この「健脚遍路女子」とはこの後何回か出合うことになりました。)

  
久しぶりの山道               八丁坂入口

岩屋寺に向かう遍路道には急峻な「八丁坂」を経由する「農祖峠遍路道」と県道12号線を迂回する遍路道の分岐点があります。ずっと先を歩いている健脚遍路女子は何の躊躇いもなく淡々と「農祖峠方面」に進んでいったので私もその遍路道を行ってみることにしました。ところがこの「八丁坂」までの急勾配の遍路道はとんでもなく厳しいものでした。あっという間に彼女の姿は視界から消えました。老体に鞭打って数歩登っては休憩するテンポではとても彼女に付いて行けません。この「八丁坂」登りが今回遍路の最初の試練となりました。久しぶりの「遍路転がし」です。八丁坂頂上まで約30分の山道でした。峠の茶屋あとで少し長く休憩しました。この「農祖峠遍路道」は「45番岩屋寺」の裏側に直接通ずる最短距離となっているので、結果的には大分時間を稼ぐことができました。

  
八丁坂頂上            頂上からの眺め

岩屋寺には山門が二つあり、一つは下から登ってくる道の山門、もう一つは農祖峠遍路道から下ってくる道の山門です。裏側の農祖峠遍路道を通ってくると修験者の行場である「逼割禅定」を通ることになります。行場には厳重に鍵が掛けられているので相当危険なのだろうと想像しましたが、逼割禅定に入るための「鍵」は岩屋寺で簡単に貸してくれるのだということを後で知りました。

    
岩屋寺逼割禅定       逼割禅定注意書き

   
岩屋寺山門             岩屋寺境内

岩屋寺の堂宇は断崖絶壁を望む狭い平地に作られています。納経を終えると再び久万高原を目指して坂道を下ることになります。岩屋寺からの帰り道は舗装された県道12号線を歩くことにしました。「八丁坂」経由の遍路道をもう一度歩くことは私の選択肢にはありませんでした。この県道の遍路道は非常に単調なものでしたが、緩やかな車道の下り坂を歩くのは爪先への負担が少ないので「足」には優しいと思いました。一方山を下りてきてからはできるだけ昔の遍路道を歩くことにしました。岩屋寺への往路では「健脚遍路女子」が地図にない遍路道を通って追い抜いて行ったのでした。この遍路道は「エンマ堂遍路道」というようです。 

   

   

久万高原の街に戻って「お久万大師」でお参りをしてから今日の宿「桃李庵」に向かいました。休憩しようと途中の「久万高原物産館」に入ってみると中年男性遍路と出会いました。そこでは一礼して別れたのですが、更に進んだ「ホームセンタコーナン」の入り口からこの中年遍路が電話をしているところに遭遇しました。実は今晩の宿「桃李庵」のご主人から「コーナンから電話せよ」と言われていたのです。中年遍路に「ひょっとして桃李庵にお泊りですか」と尋ねると「その通り」という答えが返ってきました。私も言われた通りに桃李庵に連絡したところ、今日の客は佐藤が「2名」だとの回答が返ってきました。「九州の佐藤(私)」と「愛知の佐藤(中年遍路)」の二人の佐藤がこの日の桃李庵の宿泊客でした。「愛知の佐藤」さんは3回回ったベテランで以前にも桃李庵を利用したことがあるということでした。その時膝を痛めて歩けなくなり桃李庵のご主人に松山空港まで車で送ってもらったのだそうです。今回はその時のお礼も兼ねた投宿のようでした。桃李庵のご主人も「愛知の佐藤」さんを朧気ながら覚えているようでした。

「桃李庵」は久万高原から遍路道を5Km程歩いた山間部にあります。ご主人は自分が遍路した経験を基にして、朝出発してその日の夕方に「道後温泉」に着くことができる場所に遍路宿の土地を探したのだそうです。有名な「道後温泉」は歩き遍路にとっても大変魅力的な宿泊地で、すんなりと夕方に道後の宿にたどり着くことができると便利なのです。逆算すると「桃李庵」は「道後温泉」の手前約26Kmのところにあり、平均的な歩き遍路には丁度良い地点に当たります。

桃李庵は部屋にテレビは無いし、食事中はテレビを消すか音量を小さく絞り、「遍路同士」・「ご主人と遍路客」の親睦を深めるという方針だということでした。「愛知の佐藤」さんは退屈だといってボヤいていました。私は初日の疲れが酷く夕食を食べた後は直ぐに寝てしまいました。天気予報では明日は「雨」だと予報しています。「桃李庵」では道後温泉の次の宿として伊予北条の「シーパマコト」を紹介してもらいました。遍路特別料金で天然温泉付きの部屋に泊まれるという宿です。「土・日」には「歩き遍路特別料金」設定はないのですが、部屋が空いていれば安く泊めてくれるかもしれないというので電話しました。ご主人の言葉通り日曜日夜は空いていたので「歩き遍路特別料金」で予約することができました。 

〇松山観光港0515→JR松山駅0535:460円
 〇JR松山駅0630→久万中学校前0738:1,380円
 〇久万中バス停0800→大宝寺0830(1km)
 〇大寶寺0830→第45番岩屋寺1030(8.4km山道)
 〇岩屋寺1100→於久万大師1400(10.4km)
 〇於久万大師1430→桃李庵1600(4.6km)
 〇総行程24.4Km、宿:桃李庵 この日の歩数:46375歩

 

10月22日(土)三坂峠降り、道後へ

愛知の佐藤さんは今回が4回目の遍路だということで、札所間が長距離の区間については公共交通機関を使って効率的に回る遍路をしています。しかし「久万高原ー道後区間」については古い遍路道を歩いて進むということなので、私達は6時45分頃小雨の降る中を出発しました。雨脚はそれ程でもないので途中で雨具のポンチョを付けることにしました。桃李庵ご主人夫婦が玄関の外に出て見送ってくれました。国道33号線と重なっている遍路道は桃李庵の近くから約2Km登りが続きます。そして三坂峠直前で国道から昔ながらの細い遍路道が国道から右側に伸びていきます。そこから「三坂峠」の下りが始まります。

       
早朝桃李庵を出発          三坂峠遍路道入口

 雨の日の坂道下りは大変危険です。遍路開始早々脚を痛めてしまっては大変ですので慎重に下ることにしました。峠頂上付近の気が生い茂る林の中で雨具のポンチョを取り出して身に着け、納経帖が濡れないように厳重に袋詰めにしてしました。少し憂鬱になりますが雨も試練だということで前向きに捉えなければなりません。この遍路道は嘗ては松山から高知に向かう主要街道だったもので「久万街道」と呼ばれていました。峠の松山側は「鍋割坂」といわれ行商の金物屋が商売用の鍋を落として割ったというほどの急坂です。

この遍路道は回りの大木が日光を遮っていることに加えて、雨模様で日光も差さないので「昼なお暗い」山道となっていました。急な坂道を注意しながら降りていくと坂道登り口のところに昔の遍路宿の「坂本屋」があります。まだプロパンガスが付いていて何時でも泊まれそうな雰囲気です。この場所に遍路宿があれば歩き遍路の選択肢が大分増えるのです。ここから歩き始めれば松山市内6札所を回ってゆったりと道後温泉で休むことができます。土曜・日曜は付近の方々がここで歩き遍路を「お接待」するのだそうですが、私はここを8時に通過したので残念ながら「接待」には与れませんでした。

    
坂本屋跡               網掛け石

坂本屋で先発した「愛知の佐藤」さんに追い付きました。「愛知の佐藤」さんはこれまで取り過ぎることが多かったのか坂本屋を丁寧にご覧になっていました。「坂本屋」と第46番浄瑠璃寺の中間あたりの遍路道沿いに「網掛け石」があります。単に「皴」の寄っている岩だろうと想像していましたが、これが思いも寄らず本当に「網」のような模様が浮き出ていることにはびっくりしました。

三坂峠を降りてからは松山市内の46番浄瑠璃寺、第47番八坂寺、第48番西林寺、第49番浄土寺、第50番繁多寺、第51番石手寺と6つの札所を回ります。第一回遍路の時に高知市内の3札所(国分寺・竹林寺・禅師峰寺)を台風の暴風の最中に回りました。このときの雨・風は最悪でしたが今日の雨はそれ程でもありませんが、早めの準備が大切なので三坂峠頂上付近で雨対策をしたのは正解でした。松山に近づくにつれて雨は徐々に上がっていきました。しかしはっきりしない天気ではありました。

「網掛け石」から更に降ると遍路道は県道207号線に吸収されます。そしてその県道から第46番浄瑠璃寺向かう遍路道に差し掛かる当たりで、坂道は緩くなり松山の平地に入って行くことになります。浄瑠璃寺の直ぐ手前には遍路宿の「長珍屋」があります。ここは近代的な遍路宿でバスで回る団体遍路で賑わう宿のようで「歩き遍路」の間でも有名な遍路宿です。浄瑠璃寺は小奇麗な寺です。本堂には「弘法大師の誕生仏」が置かれていて抱けるようになっています。浄瑠璃寺の納経所でホッチキスを借りて「ポンチョ」の修理をしました。山道の休憩地でリュックを降ろそうと思ってポンチョぬごうとした時にポンチョの首を出す場所を破ってしまったのでした。ホッチキス修理は予想外に上手くいきましたが、身に着けている間ずっと力が掛かかる場所なので、雨が降り続くと再び破れそうです。山門脇には正岡子規の句碑「永き日や衛門三郎浄瑠璃寺」があります。「衛門三郎」は遍路の創始者とされてて、その生家はこれから向かう第47番八坂寺から約1Km北上した「文殊院」(別格霊場9番)とされています。

  
浄瑠璃寺門前の長珍屋              浄瑠璃寺入口石段

県道194号線を暫く北上すると第47番八坂寺につながる道が左に伸びていました。県道脇には立派な大師像と案内番があり、参道につながる道はどことなく奥ゆかしさを感じます。この分岐点の少し手前に立派な「衛門三郎の郷美術館」という建物がありました。広い駐車場は大型観光バスが何台も停車できます。最近できたもののようですが、暫く立つと観光名所のひとつになっていくのでしょう。

第47番八坂寺は細い参道の突き当りにありました。小さな門が参拝客を迎えてくれます。嘗ては多くの堂宇の立ち並ぶ大規模な寺だったということですが現在は本堂・太子堂を中心とした小規模な寺となっています。八坂寺の1km位北に「衛門三郎の生家」の跡に建てられたという「文殊院」があります。

   
八坂寺山門             文殊院(衛門三郎生家跡)

「衛門三郎」の生家はこの地方有数の富裕な農家でした。ある日一人の旅の薄汚れたお坊さんがやってきて門前で托鉢の鈴を鳴らしました。昼寝をしていた衛門三郎はお坊さんを追い返そうとしたのですがお坊さんは立ち去りません。腹を立てた衛門三郎は竹箒でお坊さんの「椀」をたたき落としたところ「椀」は8つに割れて飛び散ってしまいました。その翌日から衛門三郎の8人の子供が次々と死んでしまいます。衛門三郎が悲しみにくれていると、ある夜旅のお坊さんが衛門三郎の夢枕に現れて「自分の非を悔いて情け深い人になりなさい」と告げます。夢から覚めた衛門三郎は自分が強欲であったことを深く悔い、その旅僧は弘法大師だと気が付いたのでした。衛門三郎は弘法大師に許してもらおうと弘法大師を追って四国の道を東から回ったり、西から回ったりして歩きますが大師に出会うことができません。そして四国を二十数回まわったところで阿波の第12番札所焼山寺で倒れてしまったのでした。衛門三郎の旅から「弘法大師」を求めて歩く四国遍路が始まったのでした。

    
平林寺山門            平林寺境内案内

文殊院を過ぎると遍路道は県道と重なり、松山の平野部の広々とした平地を北上していきます。第48番西林寺は県道40号線が河川敷の広い「重信川」を渡り、松山自動車道の高架を潜ってから直ぐの場所にありました。暫く山間部の札所が続いていたので平地にあるだけで広々とした感じがします。 そして境内は整備されていて大変立派な寺でした。

西林寺の後遍路道は松山市に目指して更に北上し、伊予鉄の踏切を渡ると直ぐに第49番浄土寺がありました。浄土寺には口元から吐き出すように小さな6体の阿弥陀仏が取り付けられている「空也上人立像」があるとのことです。諸国遍歴していた空也上人は3年間ほどこの浄土寺に滞在された時に作られたのだそうです。

   
浄土寺仁王門                 浄土寺太子堂

第50番繁多寺には2時30分頃に到着しましたが雨足が大分弱くなっていましたが空は厚い雲に覆われていてすっきりしません。繁多寺は松山市南東の高台にあり境内から松山市が望めます。晴れていれば素晴らしい眺めを楽しめるはずです。この辺りには多くの「ため池」があるのですが、繁多寺の門前にも大きなため池があります。繁多寺は時宗の開祖の一遍上人が修業された寺なのだそうです。隣の浄土寺が空也上人といい繁多寺の一遍上人といい名僧が修業された寺が隣り合わせているのは珍しいと思いました。

    
繁多寺境内             松山市内を遠望

遍路道は松山の道後温泉を目指して北上していきますが、その少し手前に第51番石手寺があります。石手寺は独特の雰囲気を持つ「現役のお寺」という感じがしました。 参拝客が多いのだと思いますが仁王門前の屋根付きのアーケードのような参道には土産物屋・参拝用品屋が左右両側に軒を連ねています。境内は広く立派な三重塔が聳えています。

      
石手寺仁王門           石手寺境内本堂

   
石手寺三重塔         石手寺案内書

石手寺にも「衛門三郎伝説」が残っています。大師探しの遍路に出た「衛門三郎」は阿波の焼山寺で力尽きるのですが、そこに弘法大師が表れます。弘法大師は「ここでおまえの罪も消える。最後に何か望みはないか」と声をかけました。衛門三郎は「伊伊道後の河野一族の世継ぎとして生まれ変わらせてください。人々のために尽くしたいのです」と答えました。すると弘法大師は「衛門三郎再来」と書いた小さな石を息を引き取る衛門三郎の手に握らせました。それから数年後、伊予の国道後湯の領主「河野家」に男の子が生まれました。ところがその子は幾日経っても左手を握ったままで開きません。道後の安養寺の住職に祈願してもらいうと「きれいな川の水で洗えば開く」とのお告げがあり、そのお告げのとおりにすると男の手が開き、中から“衛門三郎再来” という小石が出てきたのでした。 その「小石」は安養寺に納められ安養寺は「石手寺」に名前を改めたのだいうことです。石手寺は「衛門三郎」の生まれ変わり伝説の「石」を本尊としています。徳島の焼山寺下り遍路道に「衛門三郎」が倒れたという場所があり、そこに衛門三郎と弘法大師の像がありました。その時は「衛門三郎」の名前は特に強い印象は残らず気に掛けてきませんでしたが、松山市手前の「衛門三郎」生地とか生まれ変わりの「石手寺」に来て「衛門三郎」の伝説が大変重要な出来事だったのだと納得しました。今年(2016年)は閏年ですが、閏年に「逆打ち」すると「順打ち3回分のご利益がある」という話も衛門三郎の伝説から来ているようです。 

今日の宿は道後温泉ユースホステルに取りました。土曜日の道後は宿泊施設が混雑するという話は本当で、遍路地図で案内されている宿泊施設数カ所に電話した後にようやく部屋を確保できました。こういう状況だと条件の良くない宿が残っているものですが、「道後温泉ユースホステル」は大変気の利いた宿だと思いました。まず支配人さんが歩き遍路を良く知っていて雨で濡れた衣類・靴・靴下を乾かすために新聞紙・部屋のクーラー・扇風機の利用方法を教えてくれました。更にポンチョを乾かした後にホッチキスを借りて修理し直しました。

宿泊客の多くは「道後温泉」に行くので宿にある小さな浴室は全くと言っていいほど利用はありません。ゆっくり歩きの疲れを癒すことができました。「三坂峠」下りの坂道下りで足の指先に血豆ができてしまったので明日以降の歩行の障害にならないようにテーピングで保護・治療しました。結局「道後温泉」に来たものの宿からは一歩も出ずに部屋でゆっくり過ごしました。晩御飯は他の数人の歩き遍路といっしょにユースホステルで頂きました。

〇民宿「桃李庵」出発(06:30)
   〇第46番浄瑠璃寺 14.5Km
   〇第47番八坂寺   0.9Km
   〇第48番西林寺   4.5Km
   〇第49番浄土寺   3.2Km
   〇第50番繁多寺   1.7Km
   〇第51番石手寺   2.8Km
   総行程27.4Km 歩数:42295歩
 宿泊:道後温泉ユースホステル

10月23日(日)松山市内縦断

昨日の雨は夜の中に止んで今日は雲があるものの「まあまあ」の歩き日和となりました。朝7時からの朝食を済ませて松山ユースホステルを出発すると、遍路道は有名な道後温泉本館をぐるっと迂回して西に向かって松山市内に入っていきます。道後温泉は随分昔に倉敷で勤務していた時代に一回来たことがあり有名なお風呂にも入りました。今回は全くの素通りとなりました。道後温泉本館は朝6時から入浴可能だということで、この朝風呂に入るために便利な本館近くの宿が人気があるようです。朝一番のお風呂はさぞ気持ちの良いものでしょう。朝風呂帰りの浴衣を着た観光客とすれ違いました。

   
道後ユースホステル         ユースホステルノ朝食

道後温泉本館は平成29年松山国体終了後に改修工事に入るのだそうです。温泉施設の営業は工事中も継続することになったようですが、観光客に人気のある有名な本館の外観は全てフェンスで覆われてしまうようです。それに備えて現在近代的な「椿の湯」という施設が別の場所に作られていますし、本館のような昔の建物様式で再現した「湯屋」という施設を建設中です。松山にとって道後温泉は観光の目玉なのです。

   
道後温泉本館          「湯屋」建設中

大きな街を通過する場合、旧遍路道を歩いたり、別な道を通ることも可能となります。道後からいきなり山裾沿いに北上する遍路道もあるのですが、松山市の街中を少し通過して国道196号線に入って今治方面に向かう道を選びました。幹線道路を選んだのは沿線にあるホームセンタによって破れたカッパの代わりを購入しようと考えたからです。手頃なホームセンタを見つけ代わりのポンチョを買うことができたのですが、曲がるべき交差点を随分通り越して直進して進んでいたことが分かりました。通り掛かりの住民の方に大まかな方向を聞いて田園を突っ切って本来の遍路道に出ることができました。その近辺には大きな建物が無く遠くからでも目立つ「松山北中学」をめざして歩けというアドバイスは的確なものでした。

大将軍神社のある背の低い小山をぐるっと迂回すると第52番札所太山寺の一ノ門が見えてきました。時刻は11時30分で道後温泉からは約10Km歩いたことになります。一ノ門から立派な山門まで随分距離がある参道が続いています。太山寺本堂は国宝に指定されていて屋根瓦が見事な建物でした。

    
松山市内通過          大山寺一ノ門

   
大山寺山門            大山寺本堂(国宝)

この太山寺に比べて次の53番札所の円明寺は随分庶民的な印象の寺院でした。円明寺では「愛知の佐藤さん」と再会しました。愛知の佐藤さんは円明寺の直ぐ近くに「JR伊予わけ駅」があるので、次の札所付近まではJRで移動すると言っていました。円明寺を過ぎると遍路道は松山市北部の海岸線近くを通って行きます。久万高原以来「山道」が多かったので海岸を通る遍路道はとても新鮮な感じがしました。しかしずっと続く海の風景は非常に単調なものです。「愛知の佐藤」さんが言っていましたが、距離のある単調な道は一回歩けば十分で二回目以降は公共交通機関で移動すると「日数もお金」も節約して回ることができるようです。

    
円明寺山門              円明寺本堂(with佐藤さん) 

この海岸沿いには山側を国道196号線がそしてJR予讃線が走り、一番海側を旧街道の県道347号線が走っています。伊予北条の少し手前の「西の下」という地区に「高浜虚子」の胸像と小さな太子堂がありました。虚子は幼少の頃の数年間をこの「西の下」で過ごしていて、松山に戻ったときには必ずと言っていいほど「西の下」を訪れたのだそうです。其の太子堂には「遍路の墓」があり、幼少の虚子には「歩き遍路」のことや「歩き遍路」が途中で命を落とす話が印象に残ったようです。虚子の句碑「道の辺に阿波の遍路の墓あはれ」がありました。

   

この太子堂の近くに「虚子生家の碑」が建っています。その隣の家の人が偶々道に出ていらっしゃたので「虚子がお隣で生まれたのですか」と尋ねてみると、「そうではなくて虚子が帰省中にこの辺りに来た時に寄っただけの場所だよ」という回答が返ってきました。名所・旧跡がこうして増えていくこともあります。伊予北条の宿(シーパまこと)に着いたのが3時過ぎだったので、荷物を預かってもらって「先取り」して歩くことにしました。この北条地区から遍路道は海から離れて山越えして内陸の近道を通り、JR路線は海岸を迂回して走って行きます。そして「JR伊予浅海駅」で再び遍路道はJR駅にぶつかります。約4Km程の山道の遍路道を歩き伊予北条までの帰りはJRで戻って来ることにしました。

   
伊予北条の漁港            伊予北条遍路の看板

山間部の旧遍路道はやはり趣があります。夕方陽が傾いた時分に殆ど人通りのない田舎の遍路道を歩くときの気持ちはとても複雑です。午前7時頃から歩いているのですから身体は相当疲れています。一方で「良く歩いた」という充実感はあります。一方で何故自分がこの夕方にこんな寂しい山道を独りで歩いているのだろうかという自問が絶えず去来します。更に宿に着いてからの入浴・晩御飯への期待がどんどん膨らんでいくのです。

       
「シーパまこと」夕食                宿の遠景

今日の宿は伊予北条にある「シーパまこと」。大規模温泉施設に宿泊施設を同居させたような宿です。更に各部屋のは温泉を引いた内風呂が付いています。ウィークデアイでは「歩き遍路特別価格(5940円)」が設定されています。この日は日曜日だったのですが、部屋が空いていたので「歩き遍路特別価格」を利用させていただきました。温泉施設に「入り放題」で2食付きですから遍路には非常に有難い宿です。フロント脇に洗濯機・乾燥機が設置されたので更に利便になりました。「温泉施設」は大賑わいでした。ジェットバスに長時間浸かって疲れた足のマッサージをたっぷり行いました。温泉施設屋外の露天風呂からの瀬戸内海の眺めは素晴らしいものでした。さすがに夕食は「豪華」という訳にはいきませんでしたが、疲れを癒すには十分すぎる程の設備でした。

○道後温泉出発(0630)→第52番太山寺12km(1030)
 ○第53番円明寺2.5km(1130)、円明寺発(1230)
 ○伊予北条駅(シーパマコト)12km(1500)
 ○伊予浅海駅4Km(1615)
 〇伊予北条へ戻り(JR利用)
 宿:シーパマコト 総工程:30.5Km  歩数:53,129歩

10月24日(月) 今治市へ

シーパマコトの朝食は7時からだというので、前日に「お握り」作ってもらったお握りで朝食を早く済ませて6時30分に宿を出発しました。まず昨日「先歩き」したJR伊予浅海まで列車で移動してそこから歩き始めました。松山市の第53番円明寺と次の今治市第54番延命寺までの距離は34.4Kmあります。途中のJR伊予浅海駅は円明寺から15Kmの距離にあるので、今日は伊予浅見駅から19Km程まず歩いて、今治市内の札所を第54円明寺から第58番仙遊寺まで打つ予定です。

JR伊予浅海からの遍路道は長閑な海岸に沿っていきます。伊予浅見駅から北に約1Km歩くと遍路道は今治市に入ります。JR予讃線と遍路道となっている国道196号線が海岸沿いを市街地まで並行して走っています。浅海から4Km程進むと沿線に「製瓦工場」が目立ってきました。この辺りは「菊間」という地区で「菊間瓦」として750年の歴史を有する製瓦が盛んな場所だということです。第52番太山寺本堂の瓦が立派だったことや、沿線の住宅の瓦に多くの装飾がなされている背景にはこういう背景があったことに納得しました。

    
海岸沿いの遍路道           菊間の瓦工場

次に目に飛び込んできた風景は「太陽石油」の菊間製油所です。遍路道は時々国道から離れますが、そうした古い遍路道を歩いていくと「工場萌え」の方々が喜びそうな「製油所」の複雑な煙突・配管群が見えてきます。結局遍路道は「太陽石油」正面入口にぶつかり、そこを右折して国道に吸収されていきました。更に国道を進むと今治市の「新来島ドック」の造船所が見えてきます。ドックの船が見渡せる「星の浦海浜公園」で休憩しました。休憩場所で休んでいたおじさん二人と世間話の中で私が「長崎」から来たというと「造船」の話になり「今治造船」が日本一だと教えてくれました。「今治造船」「新来島ドック」を抱える今治は日本最大の造船業集積地なのです。瀬戸内海は自然が豊かな一方で産業立地においても優れています。こういう産業立地を見ると瀬戸内海の海運上の重要性を再認識します。

    
太陽石油菊間製油所           新来島ドックの遠景

遍路道が大西の街を通り抜けて再び内陸部に入っていくと「新来島ドック」は見えなくなります。JR予讃線はそのまま北上して少し迂回して今治市に向かいますが、遍路道となっている国道196号線は内陸をショートカットして今治市内に入っていきます。そして国道196号線からも分かれ緩やかな山道に入っていくと第54番延命寺がありました。

延命寺は山にひっそりと佇む静かなお寺さんという感じでした。延命寺休憩所で水をボトルに詰めさせていただきましたがここの水道水は大変美味しいものでした。石鎚山を筆頭に四国の山間部には美味しい湧き水が多く湧き出ていて、そうした湧き水を引き込んでいる上水道の水も大変美味しいのだと思います。

     
延命寺山門              延命寺本堂

延命寺を過ぎると遍路道は「しまなみ海道」のガードを潜って広大な「大谷霊園」に入っていきます。大谷霊園はいくつかの峰・谷が全て墓地となっており今治中の墓地を全て集めたのではないかと思わせる墓地です。大谷霊園は市営で「宗教不問」の墓地です。永代使用料も明瞭かつ安価ということなので墓地があるのは羨ましいと思いました。墓参りを頻繁にしない人は「迷子」になりそうなのですが。

大谷霊園を抜けると今治市の市街地に入っていきますが、このあたりから高台に「城」が見えてきます。天守閣もある結構立派なお城です。しかしよく見ると「お城」のように見えるのはマンションです。お城好きの家主さんが「お城を模した」マンションを作ったのでそうです。本当の「今治城」そこから更に北東に進みJR予讃線の向こう側にあります。

    
広大な大谷霊園            今治城?

今治市街地は非常に整然とした街並みです。第55番南光坊はJR予讃線を過ぎた今治駅の東側にありました。88カ所の札所ではこういう都会に立地する寺は非常に珍しいです。南光坊を打ち終えると遍路道は再び予讃線を渡って今治市の南西の広陵地帯に入っていきます。この辺りの遍路道は南に向かっています。遍路道沿いに「今治西高等学校」がありました。野球の伝統校だけあって非常に立派な野球場があります。長野県の高校とは大分違います。

    
南光坊鐘楼門          南光坊本堂

第56番泰山寺は良く整備された田畑の西端の高台にあります。真新しい石垣・塀に囲まれたこじんまりしたお寺でした。泰山寺の丘の北側には「しまなみ海道」の終点今治インターチェンジがあります。しまなみ海道の高速道路の四国側はここで途切れているし、本州側の尾道でも既存高速道路には繋がっていないのだそうです。将来泰山寺付近に松山自動車が延伸・接続される予定だそうです。そうなるとこの辺りの田園地帯は様相が一変するでしょう。

    
泰山寺入口            泰山寺本堂

泰山寺を打ち終えると遍路道は真っ直ぐに「蒼社川」に向かいます。この「蒼社川」には渇水期に川の中を歩いた遍路道があるというのですが、草が茂っていて分からないし川は細くても水嵩があるので渡ることはできそうにもありませんでした。堤防の上の遍路道を南下して上流500m程の場所にある橋を渡りました。この堤防の直前には歩き遍路休憩所と四国遍路無縁仏墓がありました。橋が近くに無いの時代には川の水嵩が増した日には渡ることができないので遍路は何日か待たされたのだと思われます。遍路にとっては難所であったのだろうと想像されます。

    
蒼社川手前の無縁仏墓地        久しぶりの遍路休憩所

「蒼社川」を渡って今治の平野の南端にむけて山道に入っていくと山裾に第57番栄福寺があります。遍路道は麓の永福寺のあと更に南下して標高281mの第58番仙遊寺に向かいます。第59番国分寺は今治平野の南側JR線路を超えた場所にあるのです。遍路道は今治平野を大きく西側に迂回する形になっています。「永福寺」非常にこじんまりした寺でした。この寺のご住職はサラリーマン経験者だそうで「僕は坊さん」という本を書いています。それを原作として2015年に映画が製作されました。イラストや写真の得意な住職さんのようです。

     
永福寺へ(山道開始)              永福寺境内

栄福寺を過ぎると遍路道はどんどん山を登っていきます。遍路道マークを見落とさないように慎重に歩いたのですが、ここで遍路道マークを見失ってしまいました。道沿いの畑で作業している地元の人に第58番仙遊寺への道を聞くと、車の通れる太い道を教えてくれたので歩き遍路道を諦めて車道を歩くこととにしました。仙遊寺は遥か山の頂上にある建物だというこここで知りました。今日の最後に大変な苦労が待っていました。仙遊寺のある山の頂上までは車道が続いていますが、中腹に仁王門がありそこから車道のくねくねをショートカットするように直線的に登っていく遍路道(参道)が待ち構えていました。この急坂の遍路道を休み休み登って漸く仙遊寺に到着しました。この日の宿は「仙遊寺宿坊」です。

       
仙遊寺仁王門            最後の急峻な参道

仙遊寺では「愛知の佐藤」さんと再会しました。そのほかオランダから来たという「バス」さんが夕食の時に私の向かいに座りました。「バス」さんは「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」経験者でオランダからサンチアゴまで3000Km歩いた経験があるそうです。そして今回四国遍路に挑戦中なのです。バスさんは「腰の痛み」を抱えての遍路です。「愛知の佐藤」さんを中心にバスさんのペースにあった遍路宿を探してあげました。

仙遊寺の夕食では「第60番横峰寺登山」の道順・宿の取り方の話が話題の中心でした。平地にある第59番国分寺の後は、27Km先に標高745mを一気に登る「横峰寺」が控えているのです。私は遍路地図に示されている最も西側の遍路道を歩いて、明日は「湯の里温泉しこくや」に宿を取り横峯寺の麓で一泊して順番通りに歩こうと考えていました。しかし「愛知の佐藤さん」を始め夕食でご一緒した何人かの遍路はそれより東側の遍路道に進んで、61番園寺、62番宝寿寺、63番吉祥寺を先に回って「伊予小松」に宿を取り、翌日荷物を宿に預けて「第60横峯寺」を軽装で往復するという方法を考えていました。三坂峠を降りてからずっと平地の遍路道を歩いてきたのですが、今日の仙遊寺の参道といい、更に「第60番横峯寺」では久しぶりの「遍路ころがし」が待ち受けています。初挑戦の初心者遍路としては、情報を集め研究してできるだけ無難に歩きたいというのが本音です。

仙遊寺は山の上にあるために今治市の夜景は見事なものでした。また遠くに「島なみ海道」の橋が見えます。そして瀬戸内海を挟んで遠くに見えるのが広島県なのだと寺の方が教えてくれました。高い山に登った甲斐がありました。仙遊寺宿坊はお風呂が広いし、食事が美味しくとても心地が良いので疲れが取れました。

    
仙遊寺本堂           仙遊寺宿坊の夕食

○シーバマコト(6:30)→ 伊予北条発7:13分JR
   ○伊予浅海→第54番延命寺(19km)(12:00)
   ○第55番南光坊(3.4km)
   ○第56番泰山寺(3.0km)
   ○第57番栄福寺(3.1km)
   ○第58番仙遊寺(4.0km)→仙遊寺宿坊
   総行程32.5Km 宿:仙遊寺宿坊 歩数:52,473歩

10月25日(火)今治から西条へ

久し振りに宿坊に泊まりました。宿坊に泊まると朝のお勤めに参加することになります。仙遊寺でも朝6時からお勤めがありました。朝のお勤めには宿坊に泊まった者だけではなく、通夜堂に宿泊した遍路も参加します。昨日夕方仙遊寺で会った静岡県富士市からやってきている「野宿遍路青年」、岩屋寺への遍路道で見かけた「健脚遍路女子」も一緒でした。また昨日夕食で一緒だった2組の夫婦を含めて宿坊しに宿泊した遍路が参加しました。

読経の後で住職の講話がありました。これが40分を超える長いものでした。住職は3年前に奥様を失くされたということで本堂には奥様の遺影が飾られています。講和の中で「奥様の思い出」話を何回も繰り返されたことには少し閉口しました。大変奥様を愛されていたことが想像されました。後で知りましたが、通夜堂に泊まった歩き遍路に対してお寺さんから「風呂」のお接待があったのだそうです。住職の細やかな配慮を知って「朝の長話」も有難いものだったと後で考えました。朝のお勤めは7時に終わり、朝食を素早く頂いて7時30分に今日の歩き遍路に取り掛かりました。昨日酷く苦労して登った急な参道は注意して下りましたが、下るとなるとあっと言う間に上り口の仁王門に着きました。

      
綺麗な宿坊の客室           朝のお勤め(読経)

今日の取り掛かりは第59番の伊予国分寺です。仙遊寺から約6Kmの道則でした。伊予の国分寺は今治にあるのです。嘗てはこの今治平野に国府があり、国分寺・国分尼寺があったのでした。しかし伊予国府が実際にどの場所にあったのか現在分かっていないようです。この辺りは奈良の飛鳥地方と同じように小さな丘があります。「国分寺」の建てられている場所は大体同じような地形です。

    
国分寺参道           国分寺本堂

国分寺で先を行く「健脚遍路女子」に会いました。彼女に横峯寺登山の前日どこに泊まるのか聞いてみました。「小松」に連泊して一日目に61番・62番・63番を打ち、二日目に荷物を宿で預かってもらって横峯寺に登るというプランを教えてくれました。重いリュックを背負って横峰登山のプレッシャーがどんどん膨らんできたので、私も国分寺から遍路宿に電話してプランを変更することにしました。

まず伊予小松にある「ビジネス旅館小松」に電話して部屋を確保しておき、ついで今日の「しこくや」屋さんをキャンセルしました。歩き遍路はスケジュールが変わることが多いので、殆どの宿は宿泊当日「午前中」までキャンセルを受け付けます。「しこくや」さんも快くキャンセルに応じてくれました。これで「小松連泊の計画」に変更することができました。連休等の遍路客が多いシーズンにはこうは上手くいかないと思いました。

国分寺から次の第61番香園寺に向かうには、基本的に県道196号線を南下していくことになります。途中に将来「しまなみ海道」に延伸接続が予定されている「今治小松自動車道」終点の今治湯ノ浦院インターチェンジにぶつかりました。そこを通過して暫く歩くと遍路道は「西条市」に入って行きます。遍路地図は西条市に入ると「横峯山」を目指す西側の遍路道の案内が中心になります。私は遍路ルートを変更したので、第59番国分寺から第61番香園寺に向かう道が分かりません。スマホの必要性を強く実感しました。実際に歩いてきた遍路道は少し遠回りしていることに気付きました。

遠くに見える高速道路の高架道路と方位磁石をた頼りにして方向を定め、「伊予小松」方面に向かう道を探しながら進みました。少し遠回りはしたものの間違いに気付いた後、県道144号線に入ることができて概ね最短距離を歩いたようでした。通常は遍路が通ることのないような道を歩いたので沿道に住んでいる方からお接待として「みかん3つ」頂きました。疲れている時のフルーツは大変有難かったです。県道144号線は国道11号線に行き着きました。国道11号線は「讃岐街道」と重なる場所が多く、松山(伊予)から高松(讃岐)に向かうメイン道路です。遍路が四国の北側に差し掛かり、暫くは国道11号線と並行して進むことにそうです。

    
県道144号線からの眺め          国道11号線(光圓寺付近)  

第60番国分寺を9時15分に出発して18Km離れた第61番香園寺には2時30分に着くことができました。第61番香園寺は非常に珍しい近代的なビルの寺院でした。大きな建物の二階に本堂あり本尊が祀られています。本尊の周囲には映画館のように椅子がびっしり設置されています。こういうお寺の作り方も面白いと思いました。

     
香圓寺大聖堂            大聖堂2階本堂

第62番宝寿寺はJR伊予小松駅の直ぐ横にあります。駅に近いので駐車場の確保が難しいためバス利用の団体遍路は少し離れた駐車場から歩くようです。この宝寿寺については「愛知の佐藤」さんと「桃李庵ご主人」から噂を聞いていました。「朝夕の納経時間を短縮したり昼休み勝手に設けている」というものです。私が参拝したのは午後3時頃だったので全く影響が無かったです。寧ろ団体遍路の大量の納経帖書きを捌くために、大変てきぱきと采配を振るっている僧侶の方が居たので頼もしいと思いました。

    
賑やかな宝寿寺境内            宝寿寺本堂

第63番吉祥寺は伊予小松の隣駅の伊予氷見駅近くにあります。この3つの札所は距離がそれぞれ1.5Km程なので短時間で回れます。団体バス遍路さんは一カ所の停留所にバスを泊めて歩く場合があるようです。バス遍路の方は、駐車場が本堂から遠かったり、駐車が無く離れた場所から歩くような場合には「歩き遍路」ように歩くことになります。宝寿寺・吉祥寺では多くの団体遍路さんに出合いました。

      
吉祥寺山門               吉祥寺本堂

63番吉祥寺を参拝したあと頑張って「3.2Km」先の「第64番前神寺」まで参拝してきました。前神寺は山号を「石鎚山」と言い「石鎚山」の麓にあります。山岳信仰でも大変有名なようです。本堂は木々に囲まれて威風堂々とした佇まいを見せています。

    
前神寺惣門              前神寺本堂

前神寺を参拝した後は寺門前の石鎚山停留所から国道11号線を走るバスに乗って伊予小松に戻ることにしました。幸いバスは間もなく着たので5時前には小松旅館に着くことができました。ビジネス旅館小松では「愛知の佐藤」さんと一緒になりました。旅館小松名物の「鍋料理」で美味しい夕食を頂きました。夕食の時に小松の女将さんから「横峯寺への遍路道地図」を頂きました。その遍路道は「小松旅館」の直ぐ傍から山に入っていく遍路道で「保存協力会遍路案内地図」には記載されていないものでした。

    
小松旅館製地図1        小松旅館製地図2

夕食後オーストラリアからきたという中年夫婦遍路の旦那さんから「小松旅館作成の遍路地図が日本語表記だけなのだが何とかならないか」という相談を受けました。英訳するのも面倒臭いので「一緒に歩きましょうか」と答えたのですが、「奥様」が遠慮されたので、豪夫婦遍路は手持ちの英語版遍路地図を頼りにして横峯寺を目指すことになりました。「奥様は自分が山登りに時間が係ることを想像して私に迷惑が掛からないように断ったのだろう」と私は勝手に想像しました。(翌日、この中年夫婦は私からそれ程遅れることなく「英語の案内書」を頼りにして横峯寺に上り山頂で再開することが来ました。私の推測とは逆で、彼等の方が体力もあり私より早く登れるので断ったことが分かりました。

 ○第58番仙遊寺(7:00)→第59番国分寺(6.1km)
  ○第59番国分寺(8:30)→第61香園寺(18.0km)
    ○第61番香園寺→第62番宝寿寺(1.3km)
    ○第62番宝寿寺→第63番吉祥寺(1.4km)
    ○第63番吉祥寺→第64番前神寺(3.2Km)
    宿:ビジネス旅館小松(32km) 歩数:53,999歩

10月26日(水)横峯山往復、西条へ

ビジネス旅館小松で朝食を頂き昼食用の「お結び」を作ってもらって、午前6時30分に「横峯寺」登山に出発しました。小松の街は平地で標高は10〜20mでしょうから、標高745mの横峯寺まで一気に登ることになります。昨日夕食時の貰った遍路地図はかなり正確でした。殆ど迷うことなく遍路道を進むことができました。地図で教えてもらった遍路道は小松を出発して途中で「香園寺奥の院」から「横峯寺」に繋がっている遍路道に合流するもので、そこには8時に到着しました。この合流点直前で大変な急坂道が続きました。ここは久しぶりの「遍路転がし」でした。しかし重い荷物を旅館に預け軽装で登っていることもあってか疲労度合いはそれ程ではありませんでした。遍路道合流ポイントからの3.6Kmの遍路道はそれ程急坂ではなく、眺めの良い場所もあって快適な遍路道でした。

   
ビズネス旅館小松           小松の朝ご飯

  
遍路道合流点          合流点から横峯寺へ

横峯寺には9時30分に到着しました。遍路道は駐車場近くに出るため団体遍路客で大変混雑しているところにぶつかりました。横峯山ではまず「静岡の青年遍路」と第61番香園寺に向かう遍路道で出合いました。彼は正攻法で順番通りに回っていました。これから私が登ってきた道で下山していくところでした。そしてバスで登ったという「愛知の佐藤」さんと出会いました。今回「愛知の佐藤」さんと何回も出合いましたがこれが最後となりました。そして「健脚遍路女子」が私の直ぐ後を登ってきたようでした。そして豪夫婦遍路が元気にやってきました。「英語版遍路道地図」でOKだったと話していました。

    
横峯寺山門         横峰寺本堂
   

急な坂道も下るときは早いものです。横峯寺を10時30分に出発してビジネス旅館小松には12時に帰り着くことができました。横峯寺往復5時間30分でした。小松旅館で昼食のお結びを食べてから預かっていただいたリュックを引き取って出発しました。昨日第64番前神寺まで参拝してJR石鎚駅まで歩いているので、JR伊予小松駅から13時1分のJR列車で石鎚駅まで移動しました。JR石鎚駅の目の前を走っている国道11号線からの歩き始めです。

    
JR伊予小松駅           JR石鎚駅

石鎚山駅から30分ほど歩くと「加茂川」という大きな川を渡りました。この加茂川こそ西条市の「美味しい水」の源泉で、西日本最高峰の「石槌山」の麓に源流があり、西条市内には幾つもの「自噴井戸」をもたらしているとのことです。加茂川にかかる「加茂川橋」には「西条まつり」で市内を練り歩く「だんじり」のミニチュアが設置されています。西条は「水」と「祭り」の街のようです。

    
加茂川橋               橋の上の「だんじり」 

今日の宿は伊予西条の「にぎたつ旅館」をとっていました。JR伊予西条はJR石鎚駅の隣の駅なので1時間程で西条についてしまいました。まだ午後時間がるので「先取り」で暫くあるくことにしました。この辺りではJR線路と国道11号線が並行して近い場所を通っています。先に進んでから路線バスやJRの列車で戻ることができます。結局この日は西条から7Kmほど進んで「JR中萩駅」まで歩きました。

JR中萩駅に着いたときに丁度ホームに列車が入っていました。30秒早く駅に着いていれば乗れたと思いますが列車は私の目の前で出発してしまいました。昼間の時間帯のJR列車は一時間に一本しかないので国道に戻ってバスに乗って西条に帰ることにしました。幸運にも間もなく「西条駅行き」のバスがやってきました。このバスが国道を直進して西条駅に行くものと思っていたところ、暫くして国道を左折してどんどん山の中に入っていきました。このバスは「愛媛総合科学博物館経由」というもので山麓に作った大きな博物館を経由して西条駅に向かうものでした。其のバス停では誰も乗りませんでしたが。

    
伊予西条駅         「にぎたつ旅館」

この日の宿はJR伊予西条駅前の「にぎたつ旅館」です。その日の客は私一人だったようです。西条駅前にはホテルがいくつかあって電話しても満員で断られたのでした。ビジネスマンには旅館形式の宿は敬遠されるようです。歩き遍路にとって空いている「旅館」は大歓迎です。畳の部屋で寛げるし、風呂にのんびり入れるし、洗濯機の待ち時間もないからです。「にぎたつ旅館」では膝の痛みを抱える女将さんが対応してくれましたが二階へ階段の昇り・降りが辛そうでした。夕食は付いていないので駅前のコンビニまで弁当を買いにでました。「にぎたつ旅館」では「お風呂の湯」が素晴らしかったです。お湯が温泉のように豊かなのです。西条市は水が美味しいので有名だと話の通り素晴らしい水でした。

にぎたつ旅館には「伊予西条祭り」の派手なポスターが張られていた。西条祭りは毎年10月15日に開催されるもので、各町内から多くの「山車」が繰り出され市内を引き回されることで有名なのだそうです。テノール歌手の「秋川雅史」が西条出身で、この祭りに参加するために毎年西条に帰ってくるのだと女将さんが教えてくれました。

○小松旅館(6:30)→第60番横峰寺(約8Km)
 ○第60番横峯寺(10:30)→小松(昼飯)(約8Km)
 ○JR小松→JR石鎚山(13:01)
 ○JR石鎚山→歩きJR中萩(10.0Km)
 宿:西条にぎたつ旅館 (26.0Km)(歩数:48402歩)

10月27日(木)三角寺手前まで

今回の遍路においては、最初に登った「第45岩屋寺」が標高670m、「第60番横峰寺」が標高745m、そしてこれから登る「第65番三角寺」が標高500m、そして「第66番雲辺寺」が標高910mと標高の高い山寺が集中しています。このような標高の高い札所に登るについては「前日にどこに泊まるのか」に泊まるのかが重要になります。また、第64番前神寺と第65番三角寺とは45Km離れているので、どこかで一泊しなくてはなりません。幸いにも遍路道が国道11号線・JR予讃線と近い所を通っているので、列車・バスを利用して少し離れた宿でも泊まることができています。遍路に出発するまでは、それほど真剣に考えてはいなかったのですが、歩き始めてみて事前の準備が大切だと痛感しています。

今日は伊予西条の「にぎたつ旅館」を出発し、6時47分発のJR列車で「伊予西条から中萩」まで移動して、中萩から第65番三角寺の手前まで進む予定です。第65番三角寺は愛媛県最後の札所で、その次の「第66番雲辺寺」は香川県の最初の札所です。私の遍路も「終盤」に差し掛かってきました。今日の宿はJR伊予土井駅に近い「松屋旅館」を予約しました。昨日の夜に降っていた小雨は止んで気持ちの良い朝となりました。「にぎたつ旅館」で朝食を頂いて6時30分には宿を出発しました。JR西条駅で上り電車に乗って隣のJR中萩駅まで移動して中萩駅から歩き始めました。遍路道は西条市を後にして新居浜市に入って行きます。今日の歩き区間には札所がありませんので納経帖など遍路用品一式はリュックに仕舞い困れているので「さんや袋」がブラブラしなくて歩きやすかったです。

    
JR中萩駅              早朝の讃岐街道

国道11号線は「旧讃岐街道」が着かず離れずして並行して走っています。コンビニに寄りたい時には国道を歩き、静かに歩きたい時には旧遍路道に戻るということを何回か繰り返しました。朝早いので遍路道に近い「中萩小学校・中萩中学校」の多くの生徒児童と顔を合わせました。元気に挨拶する子供、恥ずかしそうに黙って通り過ぎる子供様々でした。総じて余り遍路には興味がない感じでした。

遍路道が新居浜市街を通過していく道沿いでは、中村地区で国鉄総裁で活躍した「十河信二生家」のありました。また、「旧讃岐街道」がそのままアーケード商店街になっている「喜光地(きこうぢ)商店街」という昭和のムードをたっぷり残したショッピングゾーンを通りました。朝早かったので人通りは殆どなかったですが、面白そうな商店街でした。

   
十河信二国鉄総裁生誕地          喜光地(きこうぢ)商店街

遍路道は新居浜市から四国中央市に入っていきますが、その市境となっている峠では「旧讃岐街道」と国道11号線とダブっているので国道11号線を歩かなければなりませんでした。大型ダンプや貨物自動車の通行量が多く非常に怖い思いをしました。国道11号線では歩道が片方にしか無い場所があり、しかもそれが左から右、右から左と変わるので、信号のない場所でも道を横断しなくてはならないのには閉口しました。

遍路道は四国中央市に入っていきます。四国中央市は愛媛県の東端に位置しその東側は「香川県」です。「四国中央市」とは旧川之江市と旧伊予三島市と2町村が2004年に合併してできた市です。「四国中央市」とは良く考えた名前で、四国4県全てに堺が接していて、高松・徳島・高知・松山に繋がる高速道路の結節点となっています。

       
四国中央市へ           沿道のコスモス

遍路道の旧讃岐街道が四国中央市に入ったてから少し歩いて、沿道の木之川集会所という施設の小さい広場で休憩しているときに、「自転車に乗った遍路」がものすごいスピードで私を追い抜いていったのでした。瞬間的に私が手を振るとその遍路も気が付いたようでしたがスピードは落とさずに私に手を振って走り去りました。瞬時の観察からその遍路は外国人のようで髪が長かったので女性ではないかと推測しました。随分な危険な遍路だと思いながらも、あのスピードで走り去ったので私はどんどん引き離されていって、これから再開することはないだろうと思いめぐらせました。

伊予土居の街は昔の面影を残しています。JR伊予土居駅手前には「延命寺」があり、弘法大師お手植えの「いざり松」の老木があります。樹齢700年から800年の松で昭和43年暮れに惜しくも枯れてしまいました。それまで生きていたことは大したものです。また延命寺から少し東に歩いた場所に「小林一茶」が宿泊したという「島屋跡」がありました。「一茶」は西国・四国・九州旅行の間1795年(寛政7年)に伊予土居の「島屋」に宿泊したのだそうです。当時伊予土居には「一茶」を一泊するほど「俳句ファン」が住んでいたようです。北信濃出身の同郷人「小林一茶」の足跡が伊予土居で確認できたのは嬉しいことでした。

    
「いざり松」           いざり松解説

   
島屋跡の碑            松屋旅館

JR伊予土居駅を少し過ぎた遍路道沿いにある今晩の宿の「松屋旅館」には昼の12時頃に到着しました。宿のおばさんに遍路荷物を預かってもらい、財布等の手荷物だけ持って「先歩き」に取り掛かりました。全く荷物を持たない遍路の姿は異様に見えるようで「随分身軽だね」と二回ほど声を掛けられました。

遍路道(旧讃岐街道)が国道11号線に交わる場所から、暫く旧讃岐街道から逸れて国道脇を歩くことしました。暫く歩いていくと松山自動車道土居インターからの取付道路が国道11号と交わる大きな交差点で警察官が何人か集まって事故調査をしている光景にぶつかりました。私の進行方向なのでだんだん近づいて警察官に何があったのか聞いてみると、「外国人女性自転車遍路」が自動車と接触して軽症を負ったというのです。幸いにも「かすり傷」程度ですんだようでした。彼女も遍路姿の私を抜いてきたことを覚えていたので事情を聴いてみました。彼女は日本語が堪能で「足の傷は大したことないけれど手の親指の傷が痛む」「今日は無理をしないで伊予三島に泊まろうかな」と言っていました。「軽症で済んだのは弘法大師が助けてくれたからでしょう」とも言っていました。しかしあのスピードは速すぎます。狭い遍路道は歩行者・自動車との出会いがしらの事故の危険があるし、通行量の多い国道11号線では更に大型車の接触など危険です。これから先十分気を付けて欲しいものです。後で分かったところでは彼女はフランス人女性遍路で時間が限られているので6千円で購入した「ママチャリ」に乗って自転車遍路をしているのだそうです。

    
国道11号土居IC交差点            自転車遍路気を付けて

荷物を置いて身軽になったので結局「JR伊予三島」まで歩いてしまいました。伊予三島駅には2時30分に到着しました。遍路道は平坦であったので荷物を背負っていても三島まで歩けた感じがしました。中萩駅から伊予三島近くの遍路道までの「遍路道」の距離は29Kmだと案内本には書かれています。しかしこの間遍路道ではなく国道11号線を歩いたところが多かったので実際の歩行距離はそれよりも少ないかもしれません。

JR線で「伊予土井駅」に戻り松屋旅館に入りました。話好きな女将さんによるとこの日の客は二人。名前は両方とも「佐藤さん」だというのです。もしや「愛知の佐藤」さんが予定を変更して泊まっているのかしらと考えましたが、実際は「神奈川の佐藤」さんでした。今回の遍路では「「佐藤」」さんとの出会いが多かったです。

「神奈川の佐藤」さんは私より2歳年上で早期退職した機会に88カ所全部歩いて回るつもりだと話していました。佐藤さんは遍路の準備として毎日歩いて80Kgあった体重を10Kg以上落としたと言っていました。松屋旅館では3時過ぎに着き夕食まで時間があったので、ゆっくりお風呂に入り洗濯をさせていただきました。ここでもお風呂のお湯が「温泉」のようで土居の街も「水」に恵まれた場所なのだということが分かりました。

○にぎたつ旅館→JR伊予西条
 〇JR伊予西条→JR中萩(7Km)中萩着6:53)
 〇JR中萩→伊予土居松屋旅館(10Km)
 〇松屋旅館→JR伊予三島(12Km)
 宿:伊予土居 松屋旅館 総工程:29Km 歩数:45,902歩

10月28日(金)香川県へ

松屋旅館の女将さんにペットボトルに水を汲んでくれと頼んだところ、「石鎚山山腹から汲んできた水」だといって貴重な水を入れてくれました。何でも義理の息子さんが山から汲んできた水を分けてもらっているのだそうで、親戚の間では「焼酎の水割り」には欠かせない水として有名になっているのだそうです。この水は本当に美味しかったです。伊予西条の水もそうですが、石鎚山の「水」の恵みというのは素晴らしいものだということを再確認しました。

松屋旅館からJR伊予土井駅に出てそこから伊予三島まで電車で移動しました。6時44分発の上り列車は伊予三島に7時には着き伊予三島駅から今日の「歩き遍路」が始まりました。松屋旅館の女将さんが何度も「伊予三島の歩き方」を教えてくれたのですが、それを覚えていて大正解でした。「伊予三島駅から大通りに出て左折。市役所の次のガソリンスタンドのある交差点を右折。直進すると右側にコロンボというパチンコ屋がある。水力発電所の鉄塔を目指して進むこと。発電所の左を回って山に登っていくと正解」。「パチンコ屋の向かいのコーヒー屋さんおコーヒーは大変美味しい」という情報まで頂きました。

目指すは愛媛県最後の札所「第65番三角寺」です。三角寺は伊予三島市街の南部の山間にあります。市街地と三角寺の間の山の麓には松山自動車の「三島川之江インターチェンジ」があります。「三島川之江IC」の直ぐ東側には「徳島自動道・高知自動車道」分岐があり、「松山自動車道」は「高松自動車道」に名前を変えます。東京・大阪等から高知・松山方面に、そして九州・中国地方からは高松・徳島に向かう高速道路の通り道となっています。このインターの高速バス停留所は歩き遍路にとっても非常に便利な場所となっています。「愛知の佐藤」さんは三島川之江から帰っていきました。私も「三角寺」で打ち止めする場合には「三島川之江」から高速バスを利用して「松山」に帰ろうと考えていました。

JR伊予三島駅から第65番三角寺までは約9Kmあります。三角寺の標高は500mです。途中に「銅山川」の水を利用した「銅山川水力発電所」があり、発電所の隣には「戸川公園」という公園があります。実はこの発電所で使われている水は、昭和12年から掘り進められたトンネルを経由してダムに流れ込んでいるのだそうです。伊予三島地区は嘗て水の確保に苦労したそうで、この「銅山川の水」のお蔭で製紙産業が発展し電力が供給され、農業用水と美味しい水が確保されたのだそうです。それを祈念して設置されたのが発電所の少し上にある「戸川公園」なのだそうです。遍路道沿いにはる公園の東屋は歩き遍路の休憩場所となっています。

    
銅山川第一発電所           発電所の送電線

   
戸川公園                 伊予三島の製紙工場

「戸川公園」を過ぎると遍路道の勾配はだんだん急になっていきました。しかし段々畑の中に結構多くの住宅が建っています。北側に瀬戸内海を望み、夜は伊予三島のネオンが綺麗にみえるのだろうと想像しました。買い物には不便そうですが。

第65番三角寺には8時50分に到着しました。境内下駐車場広場から上る最後の階段は大変急でかつ長い(73段)ので気を付けないと転げ落ちる危険のあるものでした。ここで怪我をしていけないと気を付けて登りました。階段を上ったところにある山門は鐘楼も兼ねていて中央に立派な鐘が吊り下げられています。

    
三角寺の旧階段                三角寺山門

境内には桜の古木が沢山あり、春の桜の花が咲く季節は素晴らしい景色となることが想像されました。小林一茶が寛政7年(1795)に三角寺を訪れたとき、「これでこそ登りかひあり山桜」と詠んだというのですが、伊予土居に正月八日(旧歴)宿泊しているのでその前後に山桜が咲いていたのかどうか少し「?」です。境内には「四季桜」が一株植えられていて10月下旬ですが紅葉した楓の横で桜の花が咲いていました。

    
桜が豊富な三角寺境内         秋に開花している桜

「三角寺」で納経を終えて午前9時30分出発しました。この日の工程は13Km先にある「民宿岡田屋」さんまでです。岡田屋さんから更に6Kmの坂道を登ったところに88カ所で最も標高の高い「第66番雲辺寺」があるのですが、脚の疲れを考えて岡田屋さんに泊まることにしました。

三角寺から暫く山道をだらだらと下っていくと遍路道は平山地区という場所で「土佐北街道」と交わります。この街道は川之江から南下して直接高知(土佐)に向かう街道で、江戸時代には土佐藩の参勤交代に使われていた道です。土佐から金毘羅を訪れるにも便利な道であったようです。旧街道と遍路道との交差点から少し下ると、遍路道は土佐北街道と並行する「高知自動車道」を潜って東に向かいます。遍路道は高知自動車道を潜った後1Kmほど先で遍路道は「国道192号線」に吸収されていきます。国道192号線は川之江と徳島を結ぶ道路で今では「徳島自動車道」が並行しています。四国中央市は江戸時代にも交通の要衝であったのです。

      
旧土佐街道の石碑         椿堂

国道192号線に合流する直前に別格第14番「椿堂」があります。「椿堂」は良く整備された小奇麗なお寺でした。「椿堂」を過ぎて平山地区の「ゆらぎ遍路休憩所」で暫く休憩しました。この頃から小雨が降り出したのでカッパの準備をしました。遍路道は国道192号線の舗装整備された広い道となって愛媛県・徳島県の県境の境目峠に向かいます。遍路道は香川県に入らずに一旦徳島県を通って香川県に入っていくのです。2Km位歩いた先の「しんきん庵遍路休憩所」では静岡からきている「遍路青年」に出合いました。彼はここで休憩しながらカッパを準備をしていました。彼は三角寺辺りの遍路道から見える「三島市街」を静岡の富士市の風景と良く似ていると言って懐かしがっていました。彼曰く「海と山と製紙工場の煙突」が富士市にそっくりだというのです。富士山の代わりに石鎚山(見えませんが)があります。

   
ゆらぎ休憩所           しんきん庵休憩所

「しんきん庵遍路休憩所」から2Km程で「境目トンネル」を通過していきます。今日の宿の民宿岡田屋の住所は徳島県三好市池田町です。トンネルの前後に岡田屋の案内看板が幾つかあり、その案内で岡田屋さんの場所は直ぐに分かりました。随分歩き遍路に対して親切な宿だと感心しました。降り出した小雨は少し強くなってきました。

   

  

ネットやベテラン遍路の評判通り「民宿岡田屋」は歩き遍路にとても親切な宿だと思いました。何回か遍路するなら一度は泊まるべき遍路宿だと思いました。その理由は「岡田屋のお爺ちゃん」です。歩き遍路が宿に到着するとこまごまと世話をしてくれます。まず雨合羽を広げて軒に干してくれて、濡れた靴の中に入れる新聞紙を準備してくれます。そして部屋を案内してくれてお風呂を教えてくれます。建物は古いですが洗浄機付きの綺麗なトイレが完備しています。国道沿いの案内看板も「おじいちゃん」が考えたのだと思いました。

   
岡田屋さん夕食         食堂壁一面の記念写真

夕食は定員8名が座れる大きなテーブルで頂きます。お爺ちゃんが給仕をしてくれます。そして食事の後半部分ではお爺ちゃんから雲辺寺登山の遍路道案内の話があります。自作の「地図」を基にした、雲辺寺まで登山ルート、雲辺寺下山後の遍路道に関するユーモアたっぷりの話です。雲辺寺は四国88札所の中でも標高900mという最も高い場所にあります。岡田屋のある地点の標高が250mで、更に下った観音寺市内は標高はほぼ「0m」ですから明日は、650m登り900m下ることになるのです。岡田屋のお爺ちゃんはそんな厳しい遍路道を細部まで熟知していて、ともすると不安になる歩き遍路を励ましてくれるのです。そうして毎日毎日やって来る遍路を支え続けているのです。

       
地図 (登り)                  地図(降り) 

食事室の壁一面にはお客の遍路から送られてくる写真が飾られています。現在でも額縁に入れられた写真が毎日のように届くのだそうです。お爺ちゃんは今年「80歳」になったとのこと。何時までもお元気で活躍して欲しいです。

○伊予土居→伊予三島JR列車
 〇伊予三島駅→「第65番三角寺」(8km)
 ○第65番三角寺→民宿岡田(13.1km)
 宿:民宿岡田屋、総行程21.1Km 歩数:34,001歩

10月29日(土)観音寺で打ち止め

午前6時朝食。私は5時に起きて濡れた靴を乾かす作業と爪先のテーピングを行いました。右の爪先は親指と人差し指の爪が内出血しています。これは「坂峠降り」で内出血を起こしその後だんだん酷くなってきたものです。今日は今回の遍路の最も厳しいと考えられる「第66番雲辺寺」登山・下山なので入念に行いました。

昼食用にと岡田屋さんからお接待の「おむすび」を頂きました。通常のペースで歩けば第67番大興寺辺りで食べることになるとお爺ちゃんが教えてくれました。8人の宿泊客は順番に出発していきました。私は6時45分に出発しました。岡田屋のお爺ちゃんは宿の外に出て「ヤマガラ」に餌を与えていました。お爺ちゃんが口笛で「ヤマガラ」を呼ぶと小鳥がお爺ちゃんの「手の平」に降りてきます。お爺ちゃんは小鳥にヒマワリの種の餌を与えながら歩き遍路の出発を見送ってくれました。

    
お世話になりました。       小鳥を呼ぶお爺ちゃん

出発の時には「雨」はあがっていたので頂いた「地図」を何回も取り出してみることができました。地図に示された交差点の進み方を確認し且つ「遍路マーク」を丹念に探せば間違うことはないとは思うのですが、私は一カ所間違えてしまいお爺ちゃんの地図を見て遍路道に戻りました。岡田屋さんから約1Km登ると遍路道は「徳島自動車道」を潜りました。早朝とは言え通過車両が殆どないことには驚きました。この辺りが標高300m。ここから遍路道は山道となり坂道は一段と厳しくなりました。ここから一気に約400m山道を登ると雲辺寺に向かう車道にぶつかります。そこからは雲辺寺まで約2Kmとなります。

      
徳島自動車道通過          遍路道が車道と合流

遍路開始早々の「第12番焼山寺」の山道は大変有名なのですが、その後遍路歩きに慣れたからと言って坂道登りが楽にはなろません。徳島の焼山寺登山が「遍路ころがし」に匹敵する坂道が各県にあるようです。いつも「なぜこんな苦しい思いをして坂道を登っているのだろう?」と自問しながら登ることになります。雲辺寺の登りも横峰寺の登りも大変苦しいものでした。しかし苦しみながら登っていると健康な身体に感謝する気持ちが湧いてきます。足の筋肉には想像を超える力が隠されているのだと感心します。足は主人を恨んでいると思いますが。

第66番雲辺寺山門には8時30分に到着しました。岡田屋さんから1時間45分かかりました。岡田屋のお爺ちゃんは普通の人で2時間から2時間30分掛かるといっていましたので頑張ったというものです。雲辺寺では岡田屋で一緒だったトレーニングウエアの男性遍路と川之江ICから出発したという女性遍路と一緒になりました。雲辺寺付近の天気は不安定で時々小雨がぱらついたり風が寒かったりしましたが、この後は天候が持ち直し暖かな日差しが降り注ぎました。

    
雲辺寺仁王門            雲辺寺本堂

天気が良くないので急いで納経を済ませて午前9時には次の第67番大興寺を目指して出発しました。雲辺寺の五百羅漢に見送られて大興寺までの9.4Kmの遍路道を下りはじめました。最初の4Kmは山道の急坂の下りで、雨が降って地面が濡れているので滑って転ばないように慎重に歩きました。この山道は4Km降りると雲辺寺ロープウェイ乗り場に繋がる車道にぶつかります。「逆打ち」でこの4Kmの坂道を登るとしたら大変苦労するだろうと想像しました。この合流点までくだった後はゆったりした舗装道路の下り坂となりました。この遍路道沿いには山の中腹に民宿「青空屋」、大興寺直前に「おおひら」がありました。

    
五百羅漢               遍路道は車道と合流

   
民宿青空屋              民宿おおひら

順路となっている遍路道は「第67番大興寺」寺の裏に繋がっています。遍路道は民宿おおひらの庭をぐるっと回り坂道を迂回して大興寺山門に通じています。大興寺には11時40分に到着しました。雲辺寺の下り坂を2時間40分で下ってきたことになります。ここでトレーニングウェア男性遍路と一緒になりました。大興寺で納経を済ませた後にお昼ご飯を頂きました。岡田屋のお爺ちゃんの言葉通りで「大興寺」でお昼となりました。

    
大興寺仁王門        大興寺大師堂

  
大興寺本堂          お昼ご飯

大興寺を打ち終わり観音寺の街に近づいていくと、遍路道沿いに岡田屋のお爺さんが「美味い」と太鼓判を押したうどん屋「大喜多うどん」がありました。大興寺でおにぎりを食べたところですが讃岐のうどんが食べたかったので一番小盛の「かけうどん」を頂くことにしました。店内ではご主人と思しき人が機械でうどんを作っています。道の向かい側には大変広い「大喜多うどん」の駐車場がありました。中規模のスーパーマーケットにも負けないくらいの広さです。休日や昼食時には混雑するのだろうと思われました。

「大喜多うどん」の少し手前にお爺ちゃんが教えてくれた「遍路小屋銭形」がありました。この遍路小屋は「遍路道沿い」に土地を確保できなくて、少し離れた道に建てられた「遍路小屋」なのだそうです。そのため利用が少ないので岡田屋さんに遍路小屋をPRして欲しい旨のお願いがあったようです。正直なお爺ちゃんはその経緯を含めて銭形遍路小屋を寄ると少し遠回りになることまで教えてくれました。

   
銭形遍路小屋案内        名物うどん大喜多

遍路道はJR予讃線の踏切を渡って観音寺市内に入ていきます。「第68番神恵院」と「第69番観音寺」は財田川を渡った「琴弾公園」の裏にあります。この二つの札所は敷地が一緒で納経所も一カ所です。共通の仁王門を潜って左奥にあるのが第68番神恵院で本堂はコンクリート製の仏教寺院らしからぬ建物でした。右奥にあるのが第69番観音寺です。

   
財田川を渡る            神恵院・観音寺仁王門

   
神恵院本堂           神恵院大師堂

   
観音寺本堂             観音寺大師堂

第69番観音寺で今回の遍路は打ち止めです。今回9日間で愛媛県松山から香川県観音寺まで歩きました。JRの路線距離(ほぼ直線)でいうと138Kmとなります。第45番岩屋寺から第69番観音寺まで25カ所の札所を回りました。一日の歩数が5万歩を超える日が幾日もあり「歩き」に心を集中しました。その分遍路道沿線の風景を楽しむとか札所以外に寄り道するとかは殆どしませんでした。松山道後に泊まった日に有名なイタリアンレストランへ「ナポリピザ」を食べに行こうと考えていたのですが、それもやめて休息に当てました。「船仕事」の合間の「遍路」でかなり日程が限らていたので「寄り道」できません。これで残りは「香川県」の19カ所札所だけとなりました。できたら余裕をもって歩き遍路の途中では「寄り道」もしたいと思います。

長崎に戻るためのフェリーは夜9時55分松山観光港を出発します。それまでの時間を観音寺駅か松山駅かで過ごそうと考えたのですが、観音寺駅周辺には殆ど何もないので松山駅に戻ることにしました。15時39分の下り特急列車に間に合ったのでそれに乗って松山に向かいました。幸い列車はガラガラ空いていたので向かいのシートを回転させて足を延ばして暫く眠りました。

    
観音寺駅から戻り       「松山→小倉」フェリー

松山には5時30分頃に到着しました。松山観光港フェリー乗り場行バスには大分時間があるので駅前の床屋で散髪する事しました。松山駅前には大規模温泉施設がありますが、フェリーの中で風呂に入ることができると思い散髪を選んだのです。しかしフェリーに乗ってみると眠気が襲ってきて、また港を出発前にぐっすり眠りこんでしまいました。翌日5時に小倉港に着きましたが長崎行きの高速バスには時間があるので、フェリー内で暫く休んで時間を潰しました。小倉から長崎は便利な高速バスで戻りました。

○民宿岡田→第66番雲辺寺(5km)
 ○第66番雲辺寺→第67番大興寺(9.4km)
 ○第67番大興寺→第68番神恵院(8.7km)
 ○第68番神恵院→第69番観音寺(0.0km)
 ○第69番観音寺→JR観音寺駅(1.5km) 49,538歩
 ○JR観音寺駅→松山駅→松山観光港→小倉港→長崎駅


続きをお楽しみに

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