四国遍路 第二回

 

第一回   2015年4月29日〜2015年5月15日

(17日間)
第1番霊山寺〜第37番岩本寺まで

第二回   2015年9月17日〜2015年9月25日

(9日間)
第38番金剛福寺〜第44番大寶寺まで
 第三回 2016年10月20日〜2016年10月29日
(10日間)
第45番岩屋寺〜第69番観音寺
第四回 未定
2015年9月17日(木)第1日目足摺岬を目指す

突然まとまった休みが取れることとなったので四国遍路の続きを開始することにしました。今回は事前準備期間が短かったので春のような入念な下調べはしませんでした。おおよその遍路計画を建てて現地での進み具合に基づいて現地で情報収集して進む「即興的」な遍路をすることにしました。春の遍路では「第37番岩本寺」で区切った(遍路を途中で中断した)ので秋の今回の出発は「第37番岩本寺」からの遍路となります。「四国高知入り」は夜行高速バスの「小田急ブルーメッツ号高知行き」(新宿20:35発⇒高知駅7:20)にお世話になりました。

午前7時20分過ぎに高速バスはJR高知駅に着きました。「徳島道」が事故で通れなかったために「高松道」に迂回したという車内アナウンスがありましたがほぼ定刻に高知駅バスターミナルに到着しました。新宿から高知駅付近までバスはずっと雨の中を走っていましたが、高知駅に降りて駅前をぶらぶらしている中に雨はほぼ止みました。高知駅から「窪川駅」に向かう「特急しまんと」は8時30分発なので高知駅で朝食を食べることにしました。遍路姿をしていると「おにぎり・うどん・そば」が精神的にも似合うので地方駅定番のその種の「立ち食い」はないかと探したのですがそのような店は見当たりませんでした。仕方がないので駅構内のモーニングサービスを提供するオシャレなレストランでトースト&コーヒーの朝食を食べました。高知駅の駅弁売り場には「アンパンマン弁当」が売っているし、高知駅に入ってくる列車の車体には「アンパン」の絵が描かれています。高知はアンパンマンの作者「やなせたかし」のお父さんの出身地で「やなせたかし本人」も嘗て住んでいたことがあるのだそうです。

   
高知駅前広場             アンパンマン列車

「特急しまんと」の車窓からは時々見覚えのある遍路道やその周辺の景色を見ることができました。春の遍路の記憶を呼び起こす瞬間が何度かありました。JR窪川駅には「9時28分」定刻通りに到着しました。「第37番岩本寺」の大師堂で遍路再開のお参りをしていよいよ歩き始めです。朝まで降っていた雨は既に止んでいて「窪川」では太陽が顔を出す良い天気となっていました。ここのところ西日本は台風も上陸せず東日本に比べると良い天気が多いようです。

「第37番岩本寺」から「第38番金剛福寺」までは「80.7Km」離れています。四国88箇所の札所間の遍路道では最も長い区間です。「第38番金剛福寺」は足摺岬の先南端にあり、その次の「第39番延光寺」は足摺岬から北に戻った内陸部にあって第38番からは「53Km」離れています。従って「第37番→第38番」「第38番→第39番」の二つの区間は合計で130Kmを超す距離となります。

第38番から第39番に行く遍路道としては、足摺岬のぐるっと西側に回って内陸に戻ってくる道と、足摺岬の東側の同じ道を半島付け根の「市野瀬」まで戻って39番に向かう道(打戻り)の二つがあります。通常の歩き遍路は同じ東側の道を戻って半島の付け根の「野市瀬」から39番に向かう「最短コース」を選ぶことが多いようです。私もこの「打戻り」を選びました。私は足摺岬先端にある第38番まで20Kmの場所にある民宿「久百々」に2泊することとし、2日目に荷物を「久百々」に預けて足摺岬先端の「第38番金剛福寺」まで往復することにしました。 

初 日 窪川  → 伊田(民宿高浜荘) 27Km

2日目 伊田  → 久百々(民宿久百々)34Km

3日目 久百々 → 第38番金剛福寺 → 久百々(打戻り)40Km

遍路再開の初日は午前10時の歩き始めとなりました。春の遍路では「ウグイス」の鳴き声に迎えられ、「山桜」「春の新芽」を見ながらの歩いたのですが、秋の今回は「つくつくぼうし」の鳴き声と「彼岸花」が至る所で迎えてくれました。山や林を通る遍路道の道端には様々な「キノコ」が顔を出していました。幸運にも春と秋の非常に気候が良くて風物が美しい時期に遍路ができました。

   
遍路道沿いの彼岸花        佐賀温泉「こぶしのさと」

岩本寺から約10Kmのの場所にある「土佐佐賀温泉こぶしのさと」を昼の12時頃通過しました。「足摺遍路の前にはこの温泉に泊まって身体の疲れを癒すと良い」と数人の遍路から聞かされたことを思い出しました。私は風呂に毎日入れる民宿に泊まりながら歩いていますが、「野宿」主体で歩いている遍路にはこのような温泉施設は恰好の休養場所になります。こういう温泉で身体を休め貯まった洗濯物を洗うと身も心もさっぱりすることでしょう。

窪川から黒潮町までの遍路道では二人の方からお接待を頂きました。歩道ですれ違った農家のおばさんからは高知名物だという「ぶしゅかん」二つを頂きました。また山からの湧き水を汲んでいたおじさんからは「焼き栗」を頂きました。このおじさんと世間話をしているうちに先の戦争の話になりました。「自分は特攻隊の生き残りなのだ」と言って車に積んであった写真集を見せてくれました。今年は終戦70周年なのです。

   
熊井隧道           太平洋の眺め

「土佐佐賀」の街に入る少し手前の峠に可愛らしいトンネルがあります。このトンネルは「熊井隧道」といって明治38年に作られたという大変古いトンネルです。土木学会選奨の「土木遺産」に指定されているそうです。車も通らないような狭いトンネルですから利用するのは歩き遍路くらいなものでしょう。土佐佐賀市街を抜けると左手には太平洋の雄大で荒々しい海岸が続きます。暫くは太平洋を眺めながらの歩きとなりました。

   
民宿「たかはま」         「たかはま」の夕食

民宿「たかはま」のご主人と電話で話したときに「同じ列車で窪川に到着して歩かれた方が夕方6時30分に着いた」という話を聞かされていたのですが、私は午後4時30分には着くことができました。久しぶりの歩きで初日の27Kmは少しきつかったです。足に「まめ」はできませんでしたが足の筋肉痛はかなりのものでした。この日の民宿「たかはま」の宿泊客は私一人だったのでゆっくり風呂に入り、洗濯もきっちりできたので疲労を回復することができました。夕食には当然のごとく「かつおのたたき」が出ました。地元の「たれ」で味付けされたものだということですが、「はちみつ」を入れているという「たれ」は大変甘くてびっくりしました。「民宿たかはま」のご主人は相撲が大好きだそうで、今場所元気の良い高知県出身の「栃王山」を応援していました。高知県では相撲が盛んなようです。民宿に飼われている黒猫(クロ)は犬のように「リード」で繋がれていました。これは高知県南部でよく見る光景です。

2015年9月18日(金)足摺岬を目指す

今日の目的地の民宿「久百々」は民宿「たかはま」からは約34Km先にあります。これは短い距離ではないので朝飯を少し早く準備してもらって朝6時40分から歩き始めました。今日の遍路道は「四万十市」を通過していきます。これまで高知からずっと遍路道に寄り添うそうに走っていた国道56号線は、四万十市からは海岸を通らずに西方の宿毛市へ向かいます。南の足摺岬への遍路道は「国道321号線」を通っていくことになります。

   
民宿「たかはま」のクロ      民宿「たかはま」朝食

四万十市では有名な「四万十川」を渡りました。民宿「たかはま」から四万十大橋まで約16Kmの距離があり午前11時に到着しました。橋の手前のコンビニで少し早い昼食を食べました。朝食を朝早く食べて歩き続けると午前11時にはお腹が空いてきます。「四万十大橋」付近はすでに河口に近くで四万十川は多くの川が合流して大河となっています。「日本一水の綺麗な川」ということで清流の印象が強いのですがこの辺りでは普通の川と変わりませんでした。「四万十大橋」を過ぎるとそれまで平坦だった遍路道は急に山道となっていきます。そして四万十市と土佐清水市を結ぶ「新伊豆田トンネル」に繋がっていきます。このトンネルは長さ「1600m」と大変長く、歩き遍路にはとっては空気が汚れているし、通行車両がスピードを出して追い抜いていくので大変危険です。しかし遍路地図には迂回道の表示はありません。昔の遍路道は消えてしまっているようです。

   
四万十大橋             新伊豆田トンネル

この「新伊豆田トンネル」を抜けると土佐清水市の「市野瀬」となります。足摺岬の「第38番金剛福寺」に向かうには、この「市野瀬」から南に下っていくことになりますが、「第39番延光寺」に向かうために同じ道を「市野瀬」まで折り返して、「市野瀬」から北西に向かうことになるのです。この一之瀬から少し南に下ると野宿するには便利そうな「ドライブイン水車」があります。今日相前後しながら歩いてきた東京から来たという「若者遍路」はここで野宿するつもりだと言っていました。私の今夜の宿「民宿久百々」はここからまだ7Km南にあります。一之瀬から5Kmほど南下すると「下ノ加江」という古い町があります。「下ノ加江」はひっそりとしていますが大変趣のある街並みだと思いました。町の入り口近くの家で飼われている「白い子犬」と暫く遊びました。この子犬とは第39番に向かう戻りの途中でも遊びました。

   
市野瀬の遍路分かれ道        ドライブ水車の休憩施設


下ノ加江の街の子犬

民宿「久百々」には4時40分頃に着きました。民宿「久百々」は膝が痛いといって辛そうに歩くご主人が一人で切り盛りしていました。宿泊客の多い時には近所の方に手伝って頂くのだそうですが、この日は客が少ないということでご主人が「料理作り」をしていました。夕ご飯の最中に少ない客同士で話をしている中で「明朗・活発な久百々の女将さん」の話題となりました。後で知りましたが、ここの女将さんは遍路客の間ではかなりの有名で多くのベテラン遍路がファンとなっているのだそうです。

奥様はどこかへ出かけているのかとご主人に伺うと、女将さんは「股関節手術」で入院しているという返事が返ってきました。ご主人は9月下旬に退院できそうだと言っていましたが、股関節を人工関節に代える手術をすると長い「リハビリ期間」が必要となりことが多く、民宿の仕事に復帰できるのは大分先になりそうです。従って「女将さん」が不在の間は自分も膝の痛みを抱えるご主人が一人で、客の多いときは近所の人達の手助けを得て運営しているのだそうです。足摺岬へ往復するには丁度良い便利な場所にあり、歩き遍路の間で「看板女将」が人気のある民宿ですので何とか末永く長く運営していって欲しいと思いました。

   
民宿「久百々」        「久百々」の夕ご飯

 

2015年9月19日(土)足摺岬往復、第38番金剛福寺

民宿「久百々」を起点として足摺岬先端にある「第38番金剛福寺」への往復歩き遍路の出発です。行程は40Kmですので歩きの速さ時速4Kmで計算すると10時間歩き続けることになります。朝食は「おむすび」に代えてもらって朝食を食べずに久百々を6時30分に出発しました。宿のご主人が「おむすび」といっしょに「おやつ(バナナ、ヤクルト、キャンディ)」を準備してくれました。足摺岬までの道沿いにはコンビニも無ければレストランも殆どないので助かりました。

国道321号線を暫く歩くと遍路道は山に入っていきました。国道は岬をぐるっと海岸近くを迂回したり、入り江では浜辺ではなく内陸の町中を通過する場合が多いです。一方昔からの遍路道は岬を迂回せずに坂道を上って高台を直線的に進んでいきますし、一方入り江では浜辺を通過することになります。そして山が迫っている場所などは昔の遍路道が国道321号線の舗装道路に代わっている場所もあります。今日の最初の印象的な遍路道は「大岐海岸」でという浜でした。そこは南北1Km程の綺麗な砂浜が続いていて遍路道は砂浜の波打ち際を北から南に縦断するコースとなっていました。1Kmの砂浜をひたすら歩くのは最初は気持ちが良いものの、遍路道の標識が全くないので不安になってきまます。そして砂浜は歩き易いものではありませんでした。

 

   
早速の「山道」               大岐海岸の「浜道」

大岐海岸を過ぎて暫く歩くと丁度午前8時頃「以布利」と言う漁港を通過しました。朝の漁を終えた漁師さん達が取れた魚を丁度水揚げしたところだったので、大きなカジキ・サワラ等がごろごいしていました。この辺りが豊かな海であることが分かりました。「以布利港」には「じんべえ広場」という広場と休憩所が付属しています。この休憩所は大変立派で雨・風を凌ぐことができますし、トイレも近くにあることから「野宿遍路」の間では人気があるようです。テントを張った遍路が丁度朝ご飯を食べているところに出会いました。私もここでひと休みさせていただきました。

   
漁港の魚             じんべえ広場

足摺岬へ向かう遍路道は海岸浜辺近くの平坦な道もあれば、切り立った岬を縦断する場合にトンネルを抜けたり、峰を越えるために急な山道を通過したりかなり変化の多いものでした。従って標高の高い山道からは雄大な太平洋を望めるし、浜辺近くでは海水浴場を通過することもあります。今日から秋の大型連休が始まります。天気も良さそうなので「波」を求めてサーファーが集まったり、家族連れの行楽客がキャンプしたりして最期の夏を楽しむことでしょう。「以布利」を抜けると遍路道は国道321号線から外れます。

   

 

この辺りから足摺岬の半島は険しい山が海に近くまで迫ってきて遍路道は海際の狭い海岸端を通っていきます。海岸線に沿って県道27号線が走っていて遍路地図で見る限り遍路道は殆どこの県道を通ることになっています。しかしこの区間には遍路地図には記載されていない古い遍路道がかなりあるようです。私は遍路道の案内板があれば古い遍路道を選ぶことにしました。遍路道の案内版があっても古い遍路道は「蜘蛛の巣」がひどく蔓延っていたり、倒木が道を塞いでいるとか、草が生い茂っているとか整備されずに荒れ放題となっている道が多かったです。これまで通過してきた「旧遍路道」に比べても荒れ方が酷いという印象が強かったです。「第38番金剛福寺」正面のレストランで話を伺ったのですが、これまで長年足摺の遍路道を整備されてきた「お爺さん」が昨年怪我をしてしまって遍路道を整備できない状況になっているのだそうです。昨年の台風で遍路道は大きな被害を受けたとのことですが足摺の旧遍路道は台風通過後の状態そのままとなっているのだそうです。

目的地の「第38番金剛福寺」に近づいていくにつれて目的地までどれ位の距離なのか気になり始めました。というのも、もう一度同じ道を逆に歩いて「民宿久百々」に帰って来なくてはならないので、進めば進むほど戻る帰りの行程が長くなることがわかっているからです。この考えは精神的に疲れるものでした。こういう遍路道を「打戻り」というのですが「日帰り打戻り」はできれば避ける方がこのましいと思いました。通常の遍路では目的地の札所に近づいていくワクワクする期待感があり、殆どの場所で一日の締めくくりは「札所」であり、最期の力を振り絞って宿に辿りつくと「風呂」が待っているという感じなのですが、「打戻り区間」では目的地はその日の締め括りではなく、折り返し点に過ぎなく昂揚感は少なくて「帰り道」のことばかり心配してしまいます。

第38番金剛福寺には午前11時30分に到着しました。片道丁度5時間かかりました。金剛福寺では多くのお遍路さんが参拝していましたが、殆どが「観光バス」で移動する遍路さんのようでした。金剛福寺は非常に奇麗に整備された寺院でした。自然の岩で囲まれた大きな池があり、寺院の各御堂が池のある庭に散らばるような形で配置されています。これは「補陀落浄土」を表している風景のようです。金剛福寺から足摺岬の灯台までは歩いてもそれほど遠くないようですが、帰り道のことを考えて灯台に行くことはやめました。その代りに足摺岬灯台が見える公園を抜けて帰ることにしました。

   
第38番金剛福寺山門         綺麗に整備された境内

足摺岬は四国最南端に位置するので非常に温暖で植生が熱帯風です。足摺岬灯台までは行きませんでしたが少し回り道をして足摺岬灯台が見渡せる撮影スポットまで行ってみました。県道沿いの広場には土佐中村出身の「ジョン(中浜)万次郎」の銅像が建っていました。足摺岬で折り返さずにそのまま岬のぐるっと回る遍路道を採ると、万次郎の故郷「中浜」を通過することになります。足摺岬のある「土佐清水市」では何と言っても「万次郎」が自慢なようです。万次郎について少し調べてみました。 

   
足摺岬の公園             足摺岬灯台

土佐「中浜」に生まれた万次郎は、1841年足摺岬で漁をしている時に漂流して10日後に南海の孤島(鳥島)に漂着しました。そこで雨水を飲み、海草・海鳥を食料にして143日間生き延びました。そして近くを通りかかったアメリカの捕鯨船に救助されました。万次郎は捕鯨船の船長にその能力を認められ、船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘーブンで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶことになりました。23歳の時に日本近くを通ってアメリカへ帰る便船サラボイド号に乗船して沖縄に上陸し日本への帰国を果たしなのでした。


ジョン万次郎銅像

沖縄から土佐に送還された万次郎は土佐藩の吉田東洋から70日に渡る厳しい取り調べを受けたのだそうです。その後12年ぶりに「母」との再会を許されたのですが、それはわずか5日間だけだったのでした。土佐藩は「万次郎」の知識・経験が大変役に立つと考え、1852年万次郎26歳の時に「士分」に取り立て土佐藩校「教授館」の教授に任命しました。ここから万次郎の日本での活躍が始まりました。後藤象二郎、岩崎弥太郎等が万次郎から直接指導を受けました。やがて万次郎の知識や技術、体験が幕末から明治にかけての日本の夜明けに、そして日米の友好をはじめとする国際交流に多大の影響を与えたのでした。明治維新後には1869年開成学校(東京大学)の教授に就任しましたが、1871年に後脳溢血で倒れた後第一線を退き静かに余生を送り1898年に亡くなりました。

夕方の「大岐海岸」はキャンプにきた家族連れで非常に賑やかでした。高知の秋の連休まだまだ海水浴が可能です。昨日宿泊客が二人しかいなかった「民宿久百々」も連休初日の今日は満員となりました。昨日はのんびり過ごせたのですが、今日は帰りが遅くなったことに加えて宿泊客が多いので、お風呂の順番待ちが長かったりトイレが混んでいたりするのでのんびりとはできませんでした。一方で多くの遍路客がいると夕食時は賑やかで楽しいものとなります。夕食を食べながらの話題はやはり「遍路道・遍路宿」に関することが中心になります。ここでは職業・年齢・家族などのことは全く話題に登りません。やはり「女将さん」が入院していることについては多くの遍路が心配していました。

2015年9月20日(日)   「久百々」から「第39番延光寺」

「民宿久百々」から「第39番延光寺」までの距離は約34Kmです。昨日の足摺岬往復40Kmに比べると距離が短いので気持ちは楽でした。その余裕もあって朝7時に歩き始めて、昔の遍路道などを寄り道したり、休憩時間を長く取って地元の人と話す時間を多くとることができました。お遍路はめいっぱいの歩行計画をたてて急いで歩くより、余裕をもってゆったりと歩くほうが気持ちが良いことを改めて実感しました。それは大変贅沢なことではありますが。第39番に行く道は「市野瀬」の「真念庵」を経由して古い遍路道を通るルートと、その南側に新しくできた県道21号線を通るルートがあります。「真念庵」を経由する古い遍路道には、その後半部分で「三原村」を通過するルートとその手前で「古い遍路道」に入り込む二つのルートがあります。選ぶ道に依って経験する雰囲気・様子も大分違うことだろうと思われます。私は県道を通らずに古い遍路道を通り「三原村」通過するルートを選ぶことにしました。久百々から「市野瀬」までは足摺岬へ往路の際に通った道です。「下ノ加江」では来るときに見つけて白い子犬にもう一度再会できました。子犬はめいっぱい甘えてきました。

   
久百々での朝食         下ノ加江の子犬

「市野瀬」からしばらく古い遍路道の山道を暫く歩くと「真念庵」があります。「真念さん」は江戸時代の僧で四国札所八十八か所の遍路道の標識整備や解説・普及に尽くした人です。その「真念さん」は足摺岬に向かう前日の宿泊所として丁度良い場所に「庵」を設営したのでした。「真念庵」は足摺岬から27Km離れていて第39延光寺へは26Km離れています。「真念庵」に泊まり翌日第38番金剛福寺まで歩いて宿坊で一泊し再び「真念庵」でに戻ってきて第39番に向かうことができます。また「市野瀬」から第38番金剛福寺まで江戸時代に1丁おきに遍路標石が建てられのだそうです。それらの標石は「足摺遍路道350標石」と呼ばれたもので現在でも55の標石が残っているのだそうです。昔の遍路は歩くしか方法が無かったし、スマホもGPSもありませんから歩き遍路を少しでも容易なものとするために様々な工夫がなされたのでした。


真稔庵

 

「信念庵」から峠越えの道には遍路案内地図に記載されていない古い遍路道が復元されているようです。今日はできるだけそうした古い遍路道を歩きました。アスファルト舗装されている道は基本的に平面なので足の裏への刺激は一定なのですが、舗装されていない山道は岩や石を踏んでいくことになるので、結果的に足首・足の裏への程良い刺激となり足の疲れは少ないように思えます。また遠くを見渡せない林の中の山道は距離感が掴み難く只管歩くだけなので結果として疲れない場合があります。

山道を暫く歩き峠を越えると坂道は急に「なだらか」になります。海岸から内陸の台地に向かう登り道は一般的に急峻な坂道となっていますが峠を過ぎるとなだらかな道となります。そして海岸近くの平地が狭いのですが、台地に登ってしまえば広い田圃が広がっている長閑な田園風景となります。三原村はそのような山に囲まれた盆地の集落で田んぼ・畑が大変豊かな感じがしました。長閑な雰囲気の中を気持ちよく歩くことができました。峠から少し降りた場所に古い遍路案内石(真念石)がありました。その案内の通りに右折し古い遍路道を通っていくと第39番に向かうことができます。この遍路道は「真念遍路道」と呼ばれ「地蔵峠」という古い峠を抜けていきます。この遍路道も面白そうだったのでしたが私は三原村を抜けていくことにしました。

   
遍路道案内            真稔が整備した道標

「真念遍路道」への曲がり角から少し下ると道沿いに山小屋風の食堂(農家民宿風車)があり、道に面して歩き遍路用の休憩所が設置されていました。午前11時になっていてお腹も空いていたし昼飯を食べるのに手頃なのでそこを借りて昼食を食べました。食堂のおばさんが私に気づいて冷たい飲み物を接待してくれました。昼食を終えて出発の準備していると先程のおばさんが自分達で作っていると言う「どぶろく」があるので飲んでみないかと勧めてくれました。車は運転しないのお言葉に甘えていただくことにしました。おばさんの話によると三原地区では10年ほど前から地元で取れる米を使って「どぶろく」作りを始めたのだそうです。現在では「どぶろく」特区に指定されるまでになっていて村内7軒の家で「どぶろく」を作っているのだそうです。その店で頂いた「どぶろく富喜」は大変美味しいお酒でした。

三原の街を通過していく遍路道はゆったりした下り坂で歩き易く「どぶろく」によるほろ酔い気分も加わって非常に気持ちよく歩けました。途中の清水川の遍路小屋ではオーストラリアからやってきたと言う「シーンさん」に出合いました。彼は日本人遍路でも迷うことがある「逆打ち」で回っていました。久し振りに英語で会話ができたと非常に喜んでいました。

   
農家食堂「風車」で       「逆打ち」シーンさん

暫くして峠を抜けると愛媛県と接する高知県最後の街の「宿毛市」に入っていきます。峠から少し下ると県道21号線の道沿いに「中筋川ダム」があります。ダム建設の影響でダム下流の中筋川の水面は下がり大変深い谷のようになっています。谷の上を通る橋はバンジージャンプが出来そうな高い場所を通っていて素晴らしい眺めとなっています。遍路道をどんどん下っていくと宿毛市の平田地区に入っていきます。地図では「土佐くろしお鉄道宿毛線」の平田駅近くにスーパーマーケットがあると示されています。「久百々」のご主人も平田駅近くのスーパーは安くて美味しい食品があると言っていたことを思い出ししました。折角なので寄って買い物をしようと近くまでいったのですが、店舗はそのままの形を残しながら閉店していました。駅前の良い立地なのになんで閉店してしまったのでしょう。

   
中筋川ダム            平田駅前スーパー閉店

この平田地区で再び遍路道は国道56号線に合流します。「第39番延光寺」は国道から700m程山を登った場所にありました。午後4時に寺の直ぐ手前にある本日の宿の民宿「嶋屋」さんに到着しました。嶋屋さんで荷物を預かってもらって「第39番延光寺」に参拝してきました。第39番延光寺は高知県最後の札所です。明日は宿毛市を抜けて愛媛・高知の県境となっている「松尾峠」を通過して愛媛県に入ります。今晩の宿の「嶋屋」さんは大きな民宿で宿泊客が多く夕食時には大変賑やかでした。車遍路の方が多く「歩き遍路」特有の話題はあまり出ませんでした。

   
第39番延光寺山門         延光寺大師堂

 

2015年9月21日(月)愛媛県入り

嶋屋さんを朝6時30分に出発しました。嶋屋さんがそもそも第39番延光寺に近い山中にあるので、出発早々から遍路道は山道に分け入っていきました。暫く山道を歩くと遍路道は再び国道56号線に合流しました。そこからはひたすら国道に沿って宿毛の街までなだらかな道を下ることになりました。宿毛の街の入口の「宿毛大橋」には午前8時前に到着しました。宿毛大橋の左には「土佐くろしお鉄道宿毛線」が走っています。「土佐くろしお鉄道」はJR窪川から中村を経て宿毛まで伸びている第三セクターの鉄道です。鉄道を利用すると窪川から宿毛まで2時間で来ることができます。宿毛の街は道路が整備されていて朝なので交通量がまだ少ないのか、それとも一日中少ないのかわかりませんが非常に広々とした感じがします。

   
嶋屋さん             宿毛大橋

朝の宿毛市内を東から西に向けて通り抜けていきました。人通りが少なく道を確かめられなかったので間違った道を進んでしまいました。暫く進んで通りに出ている地元の方に聞いて引き返しました。宿毛の街の幹線道路が微妙にカーブしているので迷ってしまうのです。国道56号線に遍路道のマークを発見して漸く安心しました。宿毛から第40番「観自在寺」のある愛媛県「愛南町」へ向かう道としては、国道56号線を通るルートと標高300mの「松尾峠」を通過する昔ながらの旧道を通る二つのコースがあります。民宿久百々で一緒だった地元四国のベテラン遍路さんは「松尾峠」を通らない四国遍路など考えられないと言っていましたし、私の古い遍路道があるならそちらを通ることを原則としてきましたから迷わずに「松尾峠」越えルートを選びました。この「松尾峠」越えの遍路道は昭和4年に国道56号線のトンネルが開通するまでは高知と愛媛を結ぶ「幹線道路」だったのだそうです。昭和4年といえばそれほど昔ではありません。随分最近まで古い道を活用していたものだと感心しました。

宿毛市郊外の峠に向かう山道の始まりあたり遍路道沿いに「宿毛貝塚」という看板と広場がありました。この山裾あたりに縄文人が住んでいてゴミ尾捨て場としていたようです。そこは高台なので津波が来ても大丈夫な場所だと思えました。遍路道はこの宿毛貝塚を過ぎる辺りから坂がだんだん険しくなっていきました。この峠道は高知県側は非常に険しい道が延々と続く全く容赦の無い道でした。途中の高知県側茶屋跡付近からは指宿湾が見渡せました。宿毛の人々には宿毛の最後の姿であり、戻ってきた宿毛の人々には懐かしい姿だったのでしょう。

   
貝塚の石碑            宿毛湾を望む

松尾峠は昔から「土佐・宇和島」の境でしたし、現在でも高知県と愛媛県の県境です。どちらかと言うと土佐と宇和島はあまり仲が良くなかったのではないかと想像されます。仙台伊達家から遥々やってきた東北人が治める宇和島とどっぷり四国気質の土佐藩では人々の考え方も違っていたと思われます。土佐藩・宇和島藩とも峠から2km下った場所に番所を設けて旅人の通行をチェックしていました。この二つの番所の間の一里の区間で旅人は山道を楽しんだのだと思います。松尾峠頂上には嘗て二軒の茶屋があったということです。

「松尾峠」には「藤原純友居城跡」という標識が立っていました。事前調べが足りなかったので松尾峠の標識を見て知りました。「藤原純友」といえば東国の「平将門」とともに「承平天慶の乱」の首謀者です。これまで平将門に興味を持ってその旧跡などを訪れてきたので、予想しなかった場所で「平将門」につながる歴史的な場所に遭遇して驚きました。この松尾峠の「純友の城」は純友が反乱を起こすにあたって「妻とその父親」を非難させた場所なのだそうです。伊予最南端の険山の中は避難場所に適していたのだと思います。しかし純友が討伐軍に敗れたため「妻とその父親」の避難は無駄に終わったのでした。

   
松尾峠頂上         愛媛県側の小山番所跡

 午前10時30分には高知県に別れを告げ愛媛県に入りました。高知県側の上り坂には踊り場のような休憩できるよう場所が全く無く結局「松尾峠」に達するまでずっと急な坂道でした。一方松尾峠を越して愛媛県側に入ると遍路道は所々手摺が整備されているし道の敷石も整備されていて坂もそれほど急ではありません。愛媛県が高知県に比べて遍路道の整備に力を入れているためだと思われました。松尾峠頂上で休んでいると神奈川県から来たという青年が追いついてきて暫く一緒に休憩しました。この青年とは一緒に遍路したわけではないのですが、休憩所で一緒になる機会が多く何とは無しに会話を交わして相前後して歩きました。彼はこの秋に転職したことを切っ掛けに、八十八ケ所を通しで回るのだといっていました。 

愛媛県側の「小山番所跡」には大量の彼岸花が咲いていて丁度見頃でした。写真愛好家らしい人が多くの機材を持ち込んで彼岸花を撮影していました。神奈川の青年と私が通りかかると「菅笠・杖・白衣の遍路と真っ赤な彼岸花」を恰好の写真題材と考えたのか声を掛けられて彼岸花と一緒に写真に移りました。これがもっと本格的な「手甲脚絆・地下足袋姿」の遍路だったらもっと様になっていたでしょう。私達は菅笠・白衣は来ているもののパンツとか靴・リュックは現代的な装備なのでした。

   
  松尾峠にある古い松尾大師       松尾峠麓に移された松尾大師  

「小山番所跡」を下り県道299号線と合流するあたりに「松尾大師」があります。この新しい松尾大師は平成21年に峠から移されたということですが、峠の松尾大師が趣のある建物であることと対照的に非常に現代的に作られています。第三者的な考えで申し訳ないとは思いますが何とかならなかったのか残念です。松尾大師の休憩所で昼飯を食べました。松尾大師を過ぎると遍路道は「一本松」の街に入っていきます。「一本松」を過ぎると遍路道は国道56号線と別れて県道292号線に入っていきます。その道沿いにある「上大道の遍路小屋」は大変整備されていてトイレも綺麗でした。この辺りでは遍路小屋を綺麗に保つために地域の方々が力を入れていることが分かります。「第40番観自在寺」のある「愛南町の街」に近づくと遍路道は「僧都川」の土手を歩くこととなります。僧都川では丁度落ち鮎漁の季節で「縦編み」という鮎を追い込む網をもった漁師さんが魚のいそうな場所を探していました。やがてこの僧都川は「御荘(みしょう)港」という小さな港に流れ込んでいます。

 

    
観自在寺山門            観自在寺本堂

愛南町(旧御荘町)の街並みは非常に落ち着いていて趣があります。第40番観自在寺は平城天皇の勅願であり次の嵯峨天皇からも厚く処遇されたので、この地方は「御荘平城」と呼ばれていたのだそうです。この第40番観自在寺は第一番霊山寺から一番離れている札所だそうです。ここからの遍路道は次第に一番に近づいていくことになります。今夜の宿の「民宿磯屋」は観自在寺を通り越して国道56号線を少し入った御荘港近くにあり遍路宿と釣人用宿を兼ねているようでした。海辺の小さな宿で漁船等が繋がれている岸壁のすぐ脇にあります。夕暮れの御荘港は静かで大変美しかったです。

 

   
夕暮れの御荘港           磯屋さんの夕食

今日の宿の「民宿磯屋」は定員3人という小さな宿で今日は既に定員一杯だったのですが、急に泊まりたいという遍路客が現れたので女将さんが布団部屋を片づけ始めました。私も手伝ってもう一人泊まれる部屋ができました。一人で民宿を切り盛りしている女将さんは非常に気さくな方で楽しい話を聞きながら夕食を頂きました。10年以上前にご主人を亡くされた後お一人で民宿を運営されているのだそうです。磯屋さんのあちこちの壁には「名画の複製」が飾られていて女将さんが大変絵が好きなことが分かります。この趣味は亡くなった私の母と同じです。居間に据えられている茶箪笥の趣味とか玄関の様子も母が長く住んでいた長野県の実家にそっくりなことに驚きました。高野山の「親王院」という寺のご住職が若い頃に四国遍路したときにこの磯屋に泊まり、それが縁でそれ以来「親王院」と親しいお付き合いが続いているとのことでした。これも女将さんの人柄によるもののようです。「親王院」は四国八十八箇所満願した後の高野山参りでのお勧めの宿だと紹介してくださいました。 

 

2015年9月22日(火)津島町の三好旅館宿泊

「第40番観自在寺」かた次の「第41番龍光寺」までは50.2Kmあります。ここを一日で歩くのは無理ですから途中どこかで一泊する事になります。35kmほど先には「宇和島」の街があります。距離だけ考えれば宇和島まで歩いてそこで一泊すれば宇和島市内を見学することもできるし宿の選択肢も豊富なので楽しめると思いました。しかし遍路道が重なっていることの多い国道56号線には「第40番観自在寺」から27Km先付近に「松尾トンネル(1710m)」があるのです。この松尾トンネルを歩いて通過するには27分もかかり通過車両の排気ガスでトンネル内の空気は大変汚れていると解説本は脅かします。一方トンネルを迂回・山越えする形で旧遍路道が通っているのですが、トンネル通過により約2Km余分に歩かなければなりません。それも山道で。歩き遍路にとってはトンネルを通るにしても、トンネルを避けて峠を通過する遍路道を通るにしても大変な難所だと思われました。

この場合に初心者遍路は「松尾トンネル通過」の困難を乗り越えて「宇和島」まで歩くか、それともここは無理をするのはやめて「松尾トンネル手前」で宿をとることにするか悩みことになります。私はここで無理をするのを止めて松尾トンネルの手前の観自在寺から24km先の「津島」という街で一泊することにしました。そこの何件かの遍路宿があり「三好旅館」という宿に予約をいれたのでした。朝6:30分に美味しい朝食を頂き、民宿磯屋の女将さんに見送られて磯屋さんを7時15分に出発しました。国道56号に出る前にもう一度「御荘港」の朝の様子を見に行きました。波が殆どなく鏡のような静かな海でした。山国長野県出身者からすると海がこのように様々な表情を見せることに感動しないわけにはいきません。

   

民宿「磯屋」さん        「磯屋」さんの朝食

 

暫く歩くと歩き遍路の間で遍路宿として話題になることの多い「民宿ビーチ」がありました。「ヒオウギ貝直売直送センター」という宣伝文句を掲げた建物が棟続きでつながっています。この近くで養殖されている「ヒオウギ貝」(ホタテガイの一種のようです)を食べさせるとのことです。眼下の入り江には貝の養殖が行われている設備が見えました。この辺りの入り江は海水浴に適しているようです。民宿ビーチから国道56号線の緩やかな坂を下っていくと愛南町の「柏」の街に入っていきます。この柏の街で遍路道は海岸を走る国道56号線から分かれて内陸の「柏坂遍路道」に入っていきます。

       
民宿ビーチ             きれいな海です。

 

この「柏坂遍路道」は「柏(内海)地区」と隣の「津島の街」を結ぶ山越えの最短ルートです。しかし海外沿いを迂回して走る国道56号線の「鳥越トンネル」が開通してからは利用が激減していました。実際海岸を走る国道は「柏坂遍路道」よりも2kmほど遠回りになるのですが「車」なら何でもない距離です。しかし歩き遍路には「2km」の差は大きい違いです。最近まで荒れ果てて「獣道」と化していた山間の道を地元の方々が少しずつ整備して遍路道として復活させたのだそうです。この旧遍路道は再び国道56号線と合流するまでの9.3kmの長さがあり、標高は愛南町(旧内海村)と宇和島市(津島)の境が最高地点で460mあります。

 

   

「柏」で旧遍路道へ            「柳水」の説明

 

   
「清水大師」の説明       遍路道沿いの川の白鯉

 

この遍路道沿いには「柳水」「清水大師」など弘法大師が湧水の在り処を教えたと伝えられる場所があります。四国の山には美味しい水がわき出ていることの証だとおもいました。9km余りの山道は変化に富む風景で長くは感じませんでした。峠を越えて降りてくると遍路道脇の川に大きな白い鯉が泳いでいました。ゆったり泳ぐ姿は「川の女王」のようでした。秋の山や里山を通っていくと栗の木の下の地面に多くの栗が落ちていたり、道の脇にキノコが生えていたりする光景を目にします。これらも彼岸花と並んで秋の風景です。道で大きな「栗の実」を見つけるとつい拾ってポケットに入れてしまい、ポケットは大分膨らみました。この栗は津島町の手前で道路工事の交通整理をしていた警備員の方に「接待」で差し上げました。

   
趣ある三好旅館          三好旅館も夕飯

民宿磯屋からは23Km程度の距離なので午後3時過ぎには宿に到着してしまいました。津島の街は岩松川の東側川岸に沿って古い町並みが保存されています。今日の宿「三好旅館」は築100年を越える古い建物を利用しています。建築当時は珍しい木造3階建てだったのだそうですが今は2階建てに改造されています。二階部分の屋根が残っています。どのように改造したのか不明ですが泊まった2階の部屋や廊下は天井が低く無理をして改造した感じでした。お隣の「西崎本店」という佃煮屋さんはもっと古く明治4年建築だそうです。昨年瓦を取り替えた際に屋根裏から棟上げ式の記録が出てきたのだそうです。三好旅館の新館はこの佃煮屋さんを挟んで一軒隣にあり晩御飯と朝御飯は新館の二階で頂きます。夕食は津島名物を盛り込んだ大変変化に富むものでした。津島の象徴ともいえる岩松川で「鰻」が取れるので「鰻の蒲焼」が出ました。また海のものでは「フカの湯上げ」をからし味噌でいただきます。明日は「第42番仏木寺」まで打つこととしてその先にある「とうべや」に宿を確保しました。
 

2015年9月23日(水)宇和島を通り抜け

 「三好旅館」を7時20分に出発して暫く津島の古い家並みを歩きました。岩松川東岸には古い建物が残っています。特に臨江寺の山門は目を引きました。大正時代の建物だということですが「櫓」を追加する事が流行った時代があったようです。橋を渡って国道56号線に入りました。国道56号線は岩松川から分かれて北の宇和島に向かいます。そして待ち構えるのは坂を登り切ったところにのある「松尾トンネル」です。

   
三好旅館の朝食         津島の臨江寺

 

「松尾トンネル」入口の左側には旧遍路道への分岐点があり汚れた遍路小屋がありました。歩き始めてまだ40分で元気なのでどんどん旧遍路道を進みました。これが予想したほど厳しいものではなく道中ずっと快適な歩きができました。山道がそれ程急ではなかったですし、歩き始めて間もなく頂上に達して後はなだらかな下り坂が続きました。後で地図をきちんと見て理由が分かりました。「松尾トンネル」を迂回する遍路道の最高地点は標高220mなのです。それも最初の1kmで最高点に達してあとはなだらかに下っていく道なのでした。苦労するのは「トンネル通過」であって旧遍路道は天気さえ良ければ全く苦労することのない道でした。但しこの遍路道は大分傷んでいてところどころに大きな倒木が通行の邪魔をしていました。整備が追い付いていない印象でした。

    
峠の頂上          倒木が目立つ遍路道
 

 国道56号線の西側の山際を高速道路が通っています。遍路道は暫く国道56号線の側道を通って宇和島の街に入っていきます。地図で示されている遍路道は宇和島の街中を迂回していくのですが、折角宇和島まで来たのですから遍路道を離れて街中を通って通過することにしました。今年(2015年)は宇和島伊達家創設400年の記念の年にあたるため市内各所に記念祭りのポスターが貼ってありました。街に入って直ぐ「天赦園」という伊達家の庭園がありました。「天赦園」の東側には伊達家屋敷を博物館に改装した「伊達博物館」があります。博物館に隣接した長い塀に作られた入口の表札には「伊達家」とありました。

   

天赦円入口        「伊達家」の表札


400年前の1615年は大坂夏の陣で「豊臣家」が滅亡した年です。この大坂夏の陣で活躍した伊達家(正宗、長男秀宗)は恩賞として宇和島10万石を徳川家康から与えられました。初代藩主はその長男「伊達秀宗」です。長男は秀吉の「秀」を賜っています。徳川二代将軍秀忠の「忠」を賜った次男の「忠宗」が仙台伊達家を継承しました。興味深い「伊達家」の文化の残る宇和島ですが先をあるために詳しく散策する時間は取らず、博物館のロビーに入って雰囲気だけを味わってきました。 

伊達博物館の北側の街の中心地には「宇和島城」があるため北上するためには城を迂回していくことにります。宇和島城の東側を迂回して「きさいやロード」というアーケードを通り抜けてると「龍光院」という別格20番の六番目の札所がありました。大きな観光バスが止まっていて白衣のお遍路さんが沢山いました。私は基本的に「八十八カ所」の限定しているのでここは素通りです。この辺りの端に「闘牛場」がるという標識がありました。宇和島は闘牛も名物となっています。遍路道はこの後JR宇和島駅の北側を通過してJR予讃線・予土線の線路と平行して北上することとなります。宇和島駅はJR予讃線・予土線の終着駅でJR予讃線は松山に向かいます。次の札所「龍光寺」のある「三間」はJR予土線の「務田(むでん)」駅近くになります。

 

   
龍光寺             繋がれた猫

 

三間は田圃が広がる盆地にあります。多くの「ため池」があったことから「水沼」が転じて「三間」になったそうです。第41番の龍光寺は三間盆地の北側の山の麓にありますが少し変わったお寺でした。見通しのよい参道の正面には山門ではなく赤い鳥居が遠くから見えます。そして参道の真正面には「お稲荷さん」が鎮座しているのです。お稲荷さんの左に本堂があり右側に太子堂があります。お遍路はお稲荷さんにはお参りせずに左右の龍光寺に参りすることになります。地元の人達はお稲荷さんを厚く信仰しているようです。

   
三間」の田んぼ           龍光寺 

 

次の札所「第42番仏木寺」は龍光寺から田園地帯を3km位歩いたところにありました。「仏木寺」は大変綺麗なお寺で、作りは新しいのですが風格があって落ち着いた雰囲気のお寺さんでした。この日の宿は「佛木寺」に近い民宿「とうべや」さんに予約してあって午後3時30分過ぎに着くことができました。田圃の畔道に「とうべや」の看板は見つかったのですが、民宿の建物は林の中に溶け込んでいて見つけ難いことに加え、民宿の場所が分かっても田圃のあぜ道を通る以外にどの道を十ていけば良いのか分からず宿に行きつくことが難しかったです。「とうべや」はネット上で評判の高い民宿なので多くの遍路が泊まるのかしらと思っていたらこの日の宿泊客は私一人でした。連休最後なので今日まで遍路している人は少ないようです。

   
佛木寺山門          佛木寺太子堂

 

歩き遍路に人気があるのは当然と思われる「とうべや」さんでした。建物の作りが新しく清々しいですし、シャワー式トイレとかお風呂・洗濯機・乾燥機などの設備は新しくて充実しています。「とうべや」さんのご主人は若い頃地質調査関係の仕事で全国の宿を「泊まり歩いた」という方で、故郷の三間に戻って民宿を始められたのだそうです。自分が実際に経験したことを宿の作り方・運営方法に生かしているのだと思いました。嘗ては山から「狸」が家族で下りてきて「とうべや」の庭先で餌を食べるということでネット上で話題になっていました。現在は「猪」が出没するために「猪狩り」が行なわるようになり、それに連れて「狸」は近づかなくなったとご主人が話していました。その代わり近所の猫(野良)が毎夕やってきます。

    
「とうべや」遠景           「とうべや」近所の猫

 

今回遍路開始以来続いた晴天も今夜から大崩れしそうです。夕方から雨が振り出しました。天気の崩れは「遍路」の大敵ですので天気に同行に合わせて今回の遍路切り上げ計画を考え始めました。現在は「宇和島市」を抜けたところまで来ていますが、そのまま遍路道を進むと30Km程度先に「大洲市」があります。「大洲市」は「八幡浜発東京行き」の伊予鉄高速バスが通っています。天候が悪化して雨の日が続くようであれば「大洲市」で切り上げる選択肢を「案1」としました。一方天気の崩れが今晩が峠で明日以降再び晴れの天気が続くのであれば、「第44番大寶寺」まで歩いて大寶寺から松山に出て松山から夜行バスで帰る方法を「案2」としました。現在第42番で第44番までは77Kmあります。77Kmを2日で歩いてその日の午後7時30分松山発の夜行バスの乗るというのは少々チャレンジングな案です。どちらかにするか明日以降の天気次第ですので、明日早く起きることができるように夜9時過ぎには寝ました。

2015年09月24日(木)第43番明石寺から内子町へ

歩き遍路は基本的に雨の中でも雨具を着けて歩くのですが、雨の中の歩行は靴の中が濡れて「肉刺」が出来やすくなりその肉刺が破れて痛みが酷くなることがあるのでできたら避けたいし、リュックの中に水が染み込んでも大丈夫なように大事な「御朱印帖」の防水対策をしなくてはなりません。前回春の遍路で台風上陸の最中に高知市内を縦断するという無謀な歩きを敢行して酷い目にあいました。

今日の行動計画は天気の回復状況を見て決めることにしました。今日以降も雨がずっと降り続くようであれば約30Km先の「大洲市」まで歩き、大洲市で今回の遍路を区切り「八幡浜」発の伊予鉄道の夜行バスに乗って新宿に戻ることを考えました。これが第一案です。一方天候が回復し今日明日も長距離歩けるようであればもう一泊して約75Km先の「第44番大寶寺」まで歩き、そこで遍路を区切るというのが第2案です。これは今回の遍路で八十八箇所の半分の四十四番まで辿りついておきたいという単純な発想です。そして酷い土砂降りが続くのであれば雨脚が弱まるまで「とうべや」で過ごすという最悪のシナリオも考えました。とにかく今朝天候が回復したなら出来るだけ早く宿を出発できるようにと、「とうべや」の主人に朝食を「おにぎり」に代えて貰って昨日中に準備をしておいてもらいました。

朝4時半頃に眼を覚ましました時には外は物凄い音を響かせて大粒の雨が降っていました。これはとてもの外を歩くことにはならないので「とうべや」さんにもう一泊することを現実的に考えなくてならないと思い始めました。しかし朝6時過ぎの天気予報によると愛媛県西部の「大雨」は今日の午前中には峠を越して午後からは雨が止みそうだという話が出てきました。そして朝7時過ぎには雨の勢いは少し弱くなってきました。天気予報の通りに雨は止むだろうと判断して午前7時30分にはポンチョを着て宿を出発しました。玄関で見送ってくれた「とうべや」のご主人は「本当に大丈夫なの」という風な顔付だったので、雨が再び酷くなれば引き返すことも考えていてその時には連絡する旨お話して出発したのでした。

   
歯長峠トンネル入り口      トンネルを抜けた歯長峠口の橋

 

「とうべや」から高速道路を左に見ながら「歯長(はなが)峠」を目指しました。遍路道が通常の自動車道路と重なっている場合、道路が「峠」に差し掛かると主要道路はトンネルで直線的に通過し、遍路道は山に登って昔の峠道を通っていくことが多いのです。「歩き遍路のはしくれ」としてはそういう場合に出来るだけ古い遍路道を選んで歩いてきたのですが今日ばかりは例外としました。大雨で小川は水嵩の増し、細い遍路道のありこち水溜りが出来、土砂崩の危険性さえある山道はできるだけ避けて整備された道を通ることにしました。「歯長峠トンネル」は歩道が狭くて危険なトンネルではありますが、車に気を付けてさえいれば雨に濡れることはありません。トンネルを抜けて西予市に入り「肱川」に出会う頃には雨足はどんどん弱くなってきました。

 

天気予報は見事にあたり午前9時近くに雨が殆ど止んだのでポンチョを脱ぐことが出来ました。雨が止んで天候が回復しそうなのでスケジュールを確定することにしました。大洲市で遍路を打ち上げるのではなく「第44番大寶寺」まで足を延ばすというものです。「第44番大寶寺」までの77Kmの道程を二日で歩くには今日中に約40Kmさきの「内子町」まで行っておきたいと考えて内子町の民宿の何件かに電話しました。さすがに当日の宿をお願いする場合には満室で断られる場合が多いことを知りました。結局内子町のはずれに近い「民宿シャロン」に素泊まりで宿を確保しました。

 

   
明石寺山門           明石寺大師堂

「第43番明石寺」には9時30分過ぎに到着しました。そのころには雨は完全に上がって太陽の日が差し始めました。大雨の後の午前中なので境内には全く人影がありませんでした。非常に風格のあるお寺さんで、雨の後で空気が澄んでいるために非常に清々しい雰囲気でした。明石寺から「宇和文化の里」の山道を抜け、遍路道は「肱川」に沿って「卯之町」に入っていきました。現在の正式名称は「西予市」ですがJRの駅名にも残っている「卯之町」という名前は大変「趣」があります。その名前の通り伝統的な建築物が立ち並ぶ古い通りが残っています。宇和島藩の時代から鉄道・道路が発展するまでずっと宿場町として栄えたので宿泊施設が充実しているようです。古い通りの入口近くにある「松屋旅館」の塀には江戸末期から明治時代の有名人が沢山泊まったということを掲示していました。土佐・宇和島からは明治維新で重要な役割を果たした人物が多数出ているので、そういう人々が泊まったり、そういう人に会いに行く旅行客が泊まったりすることが多かったのだと思います。

 

   
旅館松屋の看板         趣のある「卯之町」の街

 

遍路道は卯之町で再び国道56号線に合流したので暫く国道の側道を歩きました。国道の側道は走行車の熱で暖かくなり靴を乾かすには丁度良いのです。こういう時はコンクリートとアスファルトの道は有難いです。卯之町(西予市)を抜けて国道56号線は大洲市に向かって進みますが西予市と大洲市の境には「鳥坂トンネル」があります。「鳥坂峠」においても旧遍路道はトンネルを通らずに峠越えをするのですがここでも私は国道に繋がる狭いトンネルを歩くことにしました。歩道が狭く通行車両が近くを通り抜けていくので大変危険な思いをしながら通過しました。この「鳥坂トンネル」を抜けると「大洲市」です。大洲市は「伊予の小京都」と称される古い町並みが残っている町です。

 

   
歩道の狭い鳥坂トンネル      大洲神社の「昭和塔」

遍路道はそんな大洲の古い町並みを南から北に抜けていきます。街に入って最初に目に飛び込んできたのが大洲神社の階段下にそびえる「昭和塔」です。この塔は昭和天皇の即位を記念して造られた灯篭だそうで大変立派ななものです。灯篭なので仕方がなかったのでしょうが長い階段の下で階段を照らすように建てられています。階段を登った丘の上に建造していればもっと遠くからでも目立って注目されたと思います。少し残念な感じがしました。大洲神社下の参道すぐ近くに「おはなはん通り」という看板がありました。昭和41年のNHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」は舞台が大洲であり、その時にロケが行われた場所を「おはなはん通り」の名称を冠して残しています。私は全く覚えていませんが朝の連続テレビ小説が人気になった最初の番組だと思います。濁流の「肱川」を跨ぐ国道56号線「大洲橋」からは立派な大洲城が見えました。

 

   
「おはなはん」通り標識           立派な大洲城

 

国道56号線を暫く歩くと左手の道脇に「十夜ケ橋永徳寺」がありました。ここは別格20番札所の中でも有名な場所なのだということを後で知りました。歩き遍路においては「橋の上では杖を突かない」ことがルールとなっています。それは弘法大師がここの場所の橋の下で一夜を明かされ、弘法大師が休んでいるところを邪魔しないようにという故事から始まったということです。遍路のシンボルの「杖」ですが、橋の上で着くと橋の下に音が響くと「細かい」ところまで気を配ったものだと思います。もっとも私は両手を振って歩きたいので「杖」は使っていません。

   

   
十夜ケ橋(永徳寺)        予讃線・松山道・遍路道

遍路道は暫く高速道路と平行する国道56号線の側道を進み「内子町」の手前で細い山道となりました。国道56号線を迂回する方法もあったのですが今日の宿も近いということでここは旧遍路道を歩くことにしたのでした。しかしここに落とし穴がありました。山道はそれほど険しくないのですがその分「水掃け」が悪いようで、遍路道には大きな水溜りができていたり、酷い場所になると道全体がドロ沼化してしまった場所があったりしたのです。それまで舗装された国道の側道を歩いて漸く乾きかけていた靴が一気にびしょ濡れになってしまいました。後で気付いたのですがこの時「靴」に穴があいてしまったようで、歩く度にポンプのように雨水を靴の中に吸い込んでいたようです。この山道で大分気分が落ち込んでしまったまま「内子」の街に入っていきました。

 内子の街は伝統的な建築が残っていることに加え昔から観光振興に熱心だったようで非常に元気な感じがしました。街の中心辺りに「内子座」という古い芝居劇場があります。この劇場は「大正天皇即位」をお祝いして当時の有志が建設したのだそうです。来年2016年で丁度建設100周年となるといのことです。国の重要文化財に指定された大きくて立派な木造建物です。「劇場」自体は「ハード」ですが、そこでは様々な催し物(ソフト)が行われます。自分達で芝居などの伝統芸能を継承していったり、他所から芸人を招待したりすることによって「ソフト」が育成されていきます。地方の町興しにはこの「ソフト」の視点が欠かせません。私の田舎「須坂市」は「蔵」を再建して町興しをしていますが「ソフト」に関しては手が付いていないようです。こういう形で後世に文化財を残す先達がいて、その文化財が現在でも活躍しているのはうらやましい限りです。今日は大洲市の「昭和塔」、内子町の「内子座」と大正天皇・昭和天皇の即位を記念する建築物を一度に見ることが出来ました。

   

内子町の古い横丁        大変立派な内子座

 

今日は「とうべや」から約40Km歩いたのですが、午前中の雨の中ではポンチョは大変役立ちました。リュックとともに上半身を雨から守ってくれました。しかし問題は膝から下でした。午前中の雨のしずくが靴の中に入り込んでずぶ濡れとなったことに加え、途中国道の側道を選んで歩いて乾かしたのに最後の山間遍路道でびしょ濡れとなっていました。「民宿シャロン」で500円で洗濯をしてもらったのですが、白衣・ズボン・靴下に加えて汚れた「靴」も洗って頂き靴の中に新聞紙を詰めて乾かして頂きました。明日は遍路最終日となるのですが、汚れた服とか濡れた靴で歩くのは辛いものですし、第44番大寶寺を打った後はそのまま新宿まで高速バスに乗ることとなるので遍路衣装を一式綺麗に洗濯してもらったことは非常にありがたかったです。 

 

2015年9月26日(金)第44番大寶寺で「区切り」

朝5時40分には内子町の「民宿シャロン」を出発しました。直ぐ近くのサンクスで朝食・昼食兼用の「おにぎり」を買っていると、津島町の三好旅館で別れた横浜の青年遍路がやはり買い物のために店に入ってきました。彼は私よりずっと先を歩いていただけに昨日(午前中の雨の中を)追い付いてきたことにビックリしていました。買い物を済ませ私が先に出発しましたが、この後彼とは夕方「第44番大寶寺」で再び出会いました。今日の予定は「民宿シャロン」から「第44番大寶寺」まで約35Km歩き、大寶寺最寄りの「久万高原町」のバス停から3時45分発のJRバスで松山駅に移動して、松山で「JR」か「伊予鉄」の夜行高速バスで新宿に戻ることになっています。秋の連休が終了した後の通常の金曜日なので高速バスには空き席があるだろうと考えバスの予約はしませんでした。

 

       
民宿シャロン          大瀬の休憩所

内子町を通っている国道56導線・松山自動車道・JR予讃線はそのまま北に向かい松山方面を目指します。しかし遍路道はここで東に逸れて国道379号線を通って「久万高原」を目指すことになります。久万高原からは四国の霊峰「石鎚山」への登山道路が続いています。内子町から10Kmほど国道379号線を歩くと、左手の山中を示して「曽我十郎首塚」という案内版がありました。国道から徒歩で20分ということなので登らずに通り過ぎました。そもそも「曽我十郎」なる人物を知りませんでしたがあとで調べてみると「仇討の曽我兄弟の弟」であることを知りました。曽我兄弟は小田原の出身のようですし、敵(かたき)の伊東祐親(いとうすけちか)は伊豆出身、仇討の場所は富士山麓の巻狩場と四国とは何の関係もないのですが、曽我十郎の家来の「鬼王」が「宇和島」出身だったということです。「鬼王」が主君の首を盗み出して密かに自分の故郷に持ち帰って手厚く葬ろうと考えたようです。瀬戸内海を経由して四国北部に上陸して人目を避けて山道を「宇和島」に向かったとすると「久万高原⇒内子」の道を選んだことは納得できます。「首塚」の少し手前に「大瀬」という街があり立派な休憩所がありました。この町は作家「大江健三郎」の出身地だそうです。

   
曽我十郎首塚案内        上田渡の薬師堂

 

「曽我十郎首塚」から5kmほど進んだ「突合」という場所で遍路道は二つに分かれます。一つは更に東南を迂回する「農祖峠遍路道」、もうひとつは直線的に北上する「鴇田峠遍路道」です。「農祖峠遍路道」は「鴇田峠」の東南の「農祖峠」を経由して久万高原に入る道で、この遍路道を経由すると「45番岩屋寺」を先に打ってから「44番大寶寺」を打つことになります。このルートは山の中を大きく迂回することとなります。一方「鴇田峠遍路道」は北側の「鴇田峠」を経由して最短距離で「第44番大寶寺」近くの久万高原に入ります。こちらの場合は「第44番大寶寺」を打った後に「第45番岩屋寺」に向い、帰りは同じ道を戻ってくることになります。山中の遍路道を堪能したい遍路は「農祖峠遍路道」を選ぶことになります。私は今日中に44番を打ち終えたいので「鴇田峠遍路道」を選びました。

 

「鴇田峠峠遍路道」はしばらく国道379号線を通っていきます。そして途中少しの間「砥部町」を通過してから県道42号線を久万高原に向かうことになります。この道は古くから利用されている街道らしく、沿道には多くの「祠やお社」が残っています。国道で道幅が広く車も駐車して休める「上田渡(うえたと)」という場所には小奇麗な「薬師堂」がありました。この薬師堂は旧遍路道沿いにあった古くなった薬師堂を移転新築したものだそうです、また久万高原町と内子町の境界に近い「臼杵」という場所には「臼杵厄除大師」が移転されて立派なお堂が建っていました。このように沿道の旧跡・お堂などを整備して後代に伝えていくことは大変に重要なことだと思います。木造建築の祠とか社などの建築物は長い年月の間に傷んで荒れ果ててしまいます。

   
県道42号線に分け入り       臼杵の厄除大師堂

 

「鴇田峠遍路道」の後半には峠越えがニ箇所ありました。内子町と久万高原町の境にある「下坂場峠(標高570m)」と久万高原町の「鴇田(ひわた)峠(標高790m)」です。この二つの峠の間で遍路道は「二名(にみょう)」という集落を通過していきます。遍路道沿線でいろいろな動物に出会いますが、この「二名」の遍路道では民家の庭先で買われている「馬(ポニーか)」に出会いました。名前は「マンボ」だと書かれています。「馬」のペットと出合ったのは「仙台米が袋河川敷」で出会って以来二匹目です。馬は犬・猫より賢そうな感じがするし存在感が違います。「鴇田峠」の坂道は急坂で大変でしたが天候が良かったこともあって予定通り午後2時ごろには大寶寺に到着することができました。

 

 

   
いよいよ久万高原         ポニーのマンボ

 

「第44番大寶寺」は鬱蒼とした山中にある大変立派なお寺です。新しく再建されたようですが境内には厳粛さと清々しさが漂っています。しかし参拝後の納経にはかなり幻滅させられました。まず納経所の建物が他の堂宇と比べて非常に見劣りするものでした。境内の長い階段を下りた下にあるのですがオンボロなので有難味が薄いです。さらに女性の方に納経帖に書いて頂いたのですが、達筆なのかそうでないのか素人にわかりませんが一見稚拙に見えるような「個性的な」字を書いて頂きました。この方は全く目線を合わさず言葉も発することなく奥に下がられました。歩き遍路は第43番明石寺から「80Km」歩いて「第44番大寶寺」にたどり着いた訳ですが温かみのある応対が欲しかったです。尤も暖かく迎えられるために遍路している訳ではないので、こういうことも大師が準備した修行なのだと自分に言い聞かせました。

 

    
大寶寺の石段            大師堂

久万高原町は南北に国道33号線が走っていてこの国道をそのまま北上すると松山市内に至ります。国道沿いの「久万中学前バス停」から松山駅までは約1時間の乗車で料金は1380円。次の遍路では全く逆にまず松山市に入り松山からJRバスで「久万中学前」に移動することになります。松山行きのバスは暫く遍路道と重なる国道33号線を走っていきました。そして急に視界が開ける区間に入っていきました。そこが松山市の端の「三坂峠」のようです。眼下に松山の市街地を望むことができました。歩き遍路で通過するのが楽しみになりました。松山には複数のバス路線が一点に集まるようなバスターミナルはないようです。JR高速バスやJRの久万高原行バスに乗車するにはJR松山駅が便利ですが、新宿から走ってくる伊予鉄高速バスは伊予鉄のターミナル駅松山市駅が便利です。JR松山駅から伊予鉄松山市駅までは市電で5分(160円)かかります。


JR松山駅

 

松山から東京新宿への高速夜行バスはJR高速バス(12400円)と伊予鉄バス(12300円)の二つが走っています。久万高原からのバスの終点JR松山駅でJRバスのチケット売り場で問い合わせてみると、今晩の夜行バスは混んでいて若干狭い席ならまだ二つ空席があるとのことでした。この情報を得てから松山駅構内の旅行代理店で伊予鉄バスの状況を聞くとまだ大分多くの普通席が余っているとのことなので、伊予鉄バスのチケットを買って市電で伊予鉄松山市駅に移動しました。松山市駅近くで夕食で時間をつぶして夜行高速バスに乗り込みました。伊予鉄バスは空席が多かったのでゆったりした気分でぐっすり眠ることが出来ました。


続きをお楽しみに
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