各地の名所・名物
19.プレゼピオ、プルチネッラ |
|
19.プレゼピオ、プルチネッラ カトリック教会やその影響の強い国々においてはクリスマスにクリスマスツリーを飾るのではなく「キリスト誕生の光景」をミニチュア人形で再現した「ジオラマ」を飾る習慣があります。その風習あるいは飾られる人形・小物等はイタリアでは「プレゼピオ」と呼ばれています。 イタリア南部のナポリはカトリック教会の影響が非常に強かった都市なので独特の「プレゼピオ」文化を持っているようです。 「プレゼピオ」という言葉は元々は「飼い葉桶」を意味していました。聖母マリアから誕生したキリストは家畜小屋の「飼い葉桶」に寝かされ、そこに東方の三博士が祝福に訪れたという常に語られる話の筋がありますが、プレゼピオ作者達は「キリスト誕生の光景」として、家畜小屋やその周囲の光景、村人の様子だとか、三博士の服装、地上の様々な生き物が祝福にやってきたとか、豊かな想像力を働かせて人形をつくるものですから、「ジオラマ」はどんどん膨らんでいきます。それはミニチュア鉄道模型愛好家が、最初の「列車・線路」から次第に駅・線路際の街並み、周囲の自然までジオラマに取り込んでいく姿ににています。
「ジオラマ」共通の醍醐味なのだと思いますが、ミニチュアの人形を如何に本物(顔の表情だとか人形の服装など)に似せて作るかとか、家・道具・動物・食べ物などについては縮尺を統一させて実物の雰囲気を如何に醸し出すのかに凝りに凝ることになります。イタリアナポリのヴォメロの丘の上にある「サン・マルティーノ美術館」には19世紀末に作られたという大規模なプレゼピオが展示されています。お金持ちの家では大きなプレゼピオを飾ることにありますが、そうでない家においても毎年少しづつ人形や小物を買い足して、ジオラマを徐々に充実させていくのだそうです。
ナポリの旧市街「サン・グレゴーリオ・アルメーノ通り」にはプレゼピオ作家が軒を並べて店を出しています。クリスマスシーズンになるとお目当てのプレゼピオを求めてやって来る買い物客でごった返すようです。作家によって人形の顔の表情が違ってくるので、多くの店を見て回った末に購入する人形を決めることに成ります。これは多くのこけし職人が腕を競う「東北伝統こけし」の世界で気に入った「こけし」選ぶ作業に共通するものがあります。
「プレゼピオ作家」は「ジオラマ」に付け足したくなるような「小物・キャラクター」を想像力を働かせて作り出してきましたが、そのひとつが「プルチネッラ人形」です。「プルチネッラ」は16世紀にイタリア・ヨーロッパで流行した「仮面劇コメディ」に登場する「道化師」のキャラクターです。仮面劇ではベネチアが有名ですが、当時ナポリのコメディアンの「シズヴィオ・フィオーリロ( Silvio Fiorillo )が確立した道化のキャラクターが「プルネチッラ」でした。その道化キャラをプレゼピオの人形にしたところ、その奇怪な容姿もあって人気が出て多くのプレゼピオ作家が手がけるようになったようです。 プルチネッラは二重人格的なキャラクターを持っているのだそうです。「男性・女性、賢・愚、田舎・都会、邪・聖」などの正反対なイメージを併せ持ちます。そして何より「食いしん坊・美食家」でスパゲッティ等のパスタ料理が大好きなのです。このキャラクターがナポリのレストランのイメージにぴったりあったのだと思います。複雑なキャラクターと美食・食いしん坊は「ナポリの街」自体にも共通する要素があって人気があるようです。
特にピッツェリアやレストランには「プルチネッラ」を飾っている店が多いようです。ナポリのレストランのイメージはと言うと、狭い路地の奥にあって見栄えは決して立派とはいえないけれど出される料理のお味は抜群に上手かったり、サラダ・パスタ・ピザ・ハウスワインなど庶民的な料理が手頃な価格で食べられるのですが、どれも美味しくて健康的な食べ物であったりします。また調理方法は非常にシンプルで手早く調理されますが、実は奥が深くて料理人のこだわり調理方(オリーブオイルの使い方等)が隠されていたりします。興味が尽きないナポリの「食」の象徴のような「プルチネッラ」です。 |
|
17.ナポリのレストラン「カンツンチェッラ(Canzuncella)」 イタリア南部の「ナポリ」には数多くの魅力があります。古代ローマ帝国遺跡から中世キリスト教文化を豊富に残す教会群、歴史を色濃く残した町並み、ナポリ湾越しに眺めるヴェスビーオ火山、温暖な気候によって育まれる美味しい食材、海産物を使った料理、豊富で安いワインなどなど。ナポリ名物の料理といえば何といっても「ナポリピザ」が重要です。ナポリの街には丁度「日本のラーメン屋」と同じように「ピッツェリア」が林立しています。そのナポリピザについては別ページで扱っていますが、ナポリでもうひとつ私と妻で興味があったのが「カンツォーネ」です。 全世界のオペラ劇場で演じられるオペラは圧倒的に「イタリア語」のオペラが多いのです。なぜそうなのか考えてみると、オペラ作曲家がイタリア人が多かったこともありますが、イタリア語が「歌」 を歌うことに適している言語だからということができます。「歌」を別な言葉で言うと「人間の感情を表現する」ということができるでしょう。言語には「情報を性格に伝達する」必要性もありますが、イタリア語はその 情報伝達機能よりも「感情表現」機能がずっと優れている言語だと思います。それもかなり「オーバー気味に」。
その原点は南イタリアの眩しいほどの太陽、哀愁をさそう漁師町のナポリに原点があると勝手に思っています。ナポリピザは日本でも十分に食べられるようになっていますが、「カンツォーネ」は残念ながら日本では十分に楽しむことが出来ません。ナポリ旅行の機会に是非とも「 本場ナポリのカンツォーネ」を聞いてみたいと思って歌を聴くことが出来るレストランを事前に探しておきました。カンツォーネファンにかなりお勧めなので その店を紹介したいと思います。 そのリストランテ「カンツンチェッラ(Canzuncella)」はナポリの歴史地区の「サンタ・マリア・ラ・ノーヴァ教会」の北側の広場に「Canzuncella」はあります。地下鉄の駅では「Toredo」と「Universta」を結んだ中間点の場所あたりにあります。「Trip Adviser」の投稿情報ではナポリレストランで「歌」を聴くことが出来る場所としてかなり有名です。更に数少ない「グルーポン」が利用可能なレストランということで欧米の観光客に人気があります。で事前にメールで予約しておきました。メールで歌が聞きたい旨を書いたのですが、「もちろん毎晩やってるからOK」との回答があったのでナポリ旅行のひとつの目玉としてお伺いしました。
「Canzuncella」はホームページによると往年のカンツォーネ歌手の「Aurelio Fierro」さんが「美味しいナポリ料理とナポリ民謡」を提供するするために開いたレストランだということです。そして毎週土曜夜におこなわれた「Fierro」さん自らのディナーショーはナポリでも非常に有名となっていたようです。そのお陰で「Canzuncella」は観光客はもとより地元ナポリの名士が集まる場所となっていたようです。しかし1990年代に火災が発生してレストランは閉鎖されたようです。また「Fierro」さんも亡くなり「カンツォーネと美味しい料理」という夢は途絶えていたのでした。
しかしその夢はカンツオーネ歌手の「アルバ・ピエルノ(Alba Pierno)」さんによって引き継がれたのでした。「Canzuncella」は往年の姿を取り戻したのでした。店内の壁には「Fierro」さんお肖像画が掲げられています。レストラン奥には小さな常設ステージが作られています。そこには電子ピアノを始めに幾つかの伴奏楽器が置かれています。 メールで連絡しておいたアルバさんは私達にステージ横の特等席を用意しておいてくれました。
お目当ての「歌」は店を切り盛りする「アルバ」さんを中心にして何人かの地元の歌手によって歌われます。この日の出演は「ギターと歌担当のニコラ・モルモーネ(Nicola
Mormone)さん」と「歌担当のアルバさん」で
した。
観客の殆どは地元のナポリの人達のようです。客の中には二人の歌手に合わせてすべての曲を口ずさんでいる歌好きの女性もいました。客の中に「旦那の誕生日」 でディナーに来ていてリクエストして歌われたアルバさんの歌に感動して泪を流す女性もいました。総じて歌好きのナポリの人達の肥えた耳にも通用する本格的なカンツォーネで、外国人観光客向けの 「観光用歌謡ショー」を遥かに超えて地元の人々が集って楽しむディナーショーでした。進行は殆どすべてイタリア語でしたので細かいやりとりは分かりませんでした。 イタリア語を勉強していくと楽しさが数倍になると思います。また二人の歌を聞いてしまうとグルーポンを使うことが「申し訳なく」感じてしまいます。日本からお菓子の御土産を持っていって正解でした。 |
|
16.神戸市垂水区舞子の「孫文記念館」 中国の国父と讃えられる革命家「孫文」は、自らは武器を取って戦うという役割りではなく、資金を集めること、組織を形成して革命運動をより体系的に推進すること、海外先進国の事情を把握し民主主義を学んで革命後の中華民国の設計をすること等の役割を引き受けました。革命資金集めでは海外にある華僑社会に接触して自らの目論見を語り賛同者から資金を集めました。孫文が少年時代過ごしたハワイホノルル、アメリカ大陸ではサンフランシスコ・ニューヨーク、そして日本では横浜、長崎、神戸の華僑社会において孫文の集金活動が行われました。 特に日本港町の横浜・神戸・長崎は中国大陸から近くアメリカに行き帰する途中でも立ち寄ることとなるために頻繁に滞在しました。それぞれの街に住む中国人が孫文を支援しましたし、「孫文」を知った多くの日本人も孫文の革命運動を支援しました。この3都市の中では、神戸の中華街が神戸市・神戸大学などの地元関係者と連携もとって孫文研究が進んでいるようです。神戸市にはその研究成果・孫文関連の文物等の展示するために「孫文記念館」が設立されています。この記念館は昨年2014年に開館30周年を迎えました。
「孫文記念館」は神戸市垂水区舞子の明石大橋橋桁脇の風光明媚な場所に瀬戸内海を見渡すように建っています(「孫文記念館」の方が明石海峡より先に出来ています)。立派な洋館の建物は「移情閣」といい有力神戸華僑の「呉錦堂」の別荘を移築したのだそうです。1915年に建てられた日本最古のコンクリートブロック造建造物で重要文化財に指定されている建物です。JR舞子駅を降りると広々とした舞子公園と雄大な明石海峡大橋が迎えてくれ、「孫文記念館移情閣」までの道は非常に清々しいものです。 「孫文記念館」は5つのテーマ「孫文の生涯」「日本と孫文」「神戸と孫文」「移情閣」「呉錦堂」を掲げています。孫文、神戸華僑、神戸、日本を総合的に俯瞰しています。私が見学した日曜日には記念館の一室で「中国語会話講座」が開催されていていました。このような記念館の取り組みが無ければ貴重な遺品・記憶も散逸してしまいます。このような取り組みに横浜・長崎も巻き込んで欲しいと思いました。 神戸と孫文との関係で最も重要なものは1924年(大正13年)11月28日、孫文が旧制神戸高等女学校講堂で行った「大アジア主義演説」でしょう。孫文が亡くなるのが1925年3月12日ですから、孫文には4か月しかいのちが残されていませんでした。神戸で行われた「大アジア主義演説」は自分の命が長くないことを悟った晩年の孫文の日本への遺言であるように思えます。
孫文は革命の準備活動を日本でも行い、多くの日本人支援者からもサポートを受け「辛亥革命」に成功しますが、すぐに「袁世凱」に裏切られます。その袁世凱が亡くなった(1916年)後も地方軍閥の抗争に革命の行く手を阻まれます。一方で中国を取り巻く列強「勢力」として、ロシアを破り、第一次世界大戦でも戦勝国となった日本が新興帝国主義国家として中国大陸進出を狙い始めます。第一次世界大戦中に日本政府から突きつけられた「対華21箇条の要求」は孫文を非常に困惑させたのでした。
そして神戸での「大アジア主義演説」で嘗ての仲間日本に対して「西洋覇道の手先となるのか、東洋王道の干城となるのか」と問い質したのでした。日本はその時の孫文の忠告に全く耳を貸さずに、その後中国大陸に進出し、米・英との戦争も避けることが出来ずに、未曾有の大惨禍となった敗戦に向かって突き進んだのでした。その意味では「神戸の孫文記念館」は現代日本人がもっともっと注意を払って考えるべき課題を訴えていると思います。
|
|
16.香港・マカオ・中山市の
「孫文記念館」 孫文が生まれ、幼少期・青年期を過ごした中国南部の「香港・マカオ・広東省中山市 (旧香山県)」にそれぞれ「孫文」を記念した記念館があります。香港・マカオ・中山市の間を行き来するには一応「国境」を越えることとなるので少し面倒ですが、3ヶ所とも距離 的にはそれほど離れていないので、一回の旅行の行程で見て回ることができます。 孫文の生まれ故郷の広東省中山市の「翠亨邨」近くには立派な高速道路がマカオ国境近くまで走っていますが、一般道を走ってもマカオまで一時間程度です。香港島は珠海を挟んでマカオの反対側ですが高速 フェリーを使えば直ぐです。近い将来香港−マカオも高速道路でつながればもっと便利になります。香港は孫文が中等・高等(医学)教育を受けた場所であり 、マカオは香港で医学を収めた後に孫文が医師として活躍した場所でした。 孫文は学生時代・医師として活躍した時代 から革命の思想に共鳴し、マカオでの医業も捨てて革命活動に身を投じることになります。そして清朝政府から追われることとなりマカオ・香港を離れてました。辛亥革命から100年を経た2011年には孫文の生い立ちや革命運動に関係する足跡が大いに注目されました。 孫文の活動は距離的にも近い日本との関係も非常に深く、孫文の活動に共鳴した多くの日本人が孫文の活動を支援しました。2013年春に香港・マカオ ・中山市を訪れてこの3つの記念館を巡ることができたのでその思い出を記録しておきます。
中国広東省南部の珠江デルタ地帯は、今でこそ広州市・深圳市を中心に中国随一の工業地帯に発展していますが、昔は深圳市、中山市、珠海市などは長閑で豊かな漁村だったのでした。大きな河口となっている珠海はその名が示すように
、嘗ては真珠が採れた場所であり、漁業が盛んでホタテ・海老等を干した乾燥食品は広東の中華料理の奥深い味に欠かせないものなっています。
そしてヨーロッパからの船がインド・インドシナ半島を経由して海路で中国に至る時、この珠江デルタ地帯は中国の最初の窓口としてなった大変重要な場所で
もありました。中国でも最初に近代文化の影響を受けた地域であり、大航海時代にはまずポルトガルがマカオに進出し、日本にまで足を伸ばしたフランシスコ・ザビエルがアジアの拠点とした場所
はマカオでした。次にやってきたのはイギリスでした。珠江の河口奥に位置する虎門鎮(広東省東莞市虎門)
には清朝の要塞がありイギリスとの激しい戦いが繰り広げられました。そのアヘン戦争の結果1842年の南京条約で長閑な漁村であった香港はイギリスに割譲され
てイギリスの中国・東アジア進出の拠点となりました。マカオについても南京条約締結の数年後ポルトガルがマカオの施政権を獲得しました(正式には1887年)。その後1898年に香港北部の新界と呼ばれる地域がイギリスに100年の期限付きで租借され
ます。そこは香港を支える重要な後背地であり香港は「新界」がなければ存続が難しかったため、100年目の1997年に「新界」が香港
・マカオと一緒に中国に返還されたのでした。この間香港は世界の金融中心地・貿易中継港として発展し、マカオは世界遺産・カジノを
生かした一大観光地へと変貌しました。一方の中国大陸側の珠江デルタ地域は「深圳市」を中心に中国の
「改革・開放政策」の先進地域として急速に発展したのでした。 孫文はマカオの北30Km程度のところにある中山市 (旧香山県)翠亨邨に1866年に生まれました。孫文の幼少時代その村は非常に鄙びた場所だったようですが、すぐ南のマカオではポルトガル施政権が確立し、香港はイギリスの東アジアでの重要な軍事拠点となっていましたし、香港からはアメリカ・ヨーロッパへ 向かう客船が就航していました。孫文はヨーロッパ先進国の近代化の状況に関する情報 に触れることができ、一方では中国清王朝の国内統治は時代遅れとなっていることを実感することができました。その孫文が小さいときに暮らした生家は今でも当時のまま保存され「孫文故居記念館」となっています。 孫文の家庭は家は狭く貧しかったことは確かなようですが、兄弟二人(孫文とその兄)をハワイに送り出したのですから暮らしが それほど苦しかったという訳ではなさそうです。
「孫文の生家」とは別に立派な記念館で建てられていて孫文の業績を詳しく紹介しています。孫文が革命活動を始めるころから「写真」が発明され、孫文 が革命運動として支援者とともに写真に納まることが多かったので貴重な写真が沢山残されています。また活動写真(8mmフィルムか)が発明されたお陰で「孫文」の歩く姿などを見ることが出来ます。この記念館には孫文関係資料がタップリ展示してありますが、特に翠亨邨の幼少時代の生活、何度も失敗しながら繰り返された武装蜂起のこと、清朝打倒後の孫文の活動に重点が置かれているようです。中華人民共和国にある記念館として当然のことではありますが、孫文の第二の妻の「宋慶齡」(後に中国共産党名誉主席に就任)に関する展示に 重点がおかれています。
私の印象としてはマカオ・香港の二つの記念館に比べて規模が大きいこと、そして多くの見学者で混雑していたことが上げられます (香港・マカオの記念館が殆ど訪問客はいませんでした)。香港・マカオには他にアトラクションが沢山ありますが、中山市では「孫文故居記念館」が観光の目玉となっているようです。 国父記念館(マカオ) マカオの国父記念館はマカオの半島の北部にあります。観光名所の世界遺産の建物はマカオ半島南部に集中しているのですが狭い街なのでその歴史地区から十分歩いて行くことができます。マカオはポルトガル植民地時代の歴史建築の世界遺産と最近中国本土の富裕層が 大挙して訪れるカジノが観光名物ですが、「国父孫文」関係の史跡も十分に観光客を集める価値がある場所だと思います。マカオではこの「国父記念館」の他に、孫文が香港の医学校終了後に勤めた「鏡湖病院」(現役の大病院で世界遺産セントポール教会の少し北側にある)、更に最近になって確認されたという「孫文の開設した診療所跡」の二つの重要な場所があります。鏡湖病院の中庭には北京の天壇を小型にしたような「鏡湖歴史記念館」があります(今回の旅行では中を記念館内を見ることが出来ませんでした)。また「孫文の診療所 跡」は孫文が医療行為を行う傍ら革命運動を推進する拠点であった可能性が高く、当時のマカオでの孫文の革命運動に関する研究が進むことが期待されます。
国父記念館は「盧廉若(Lou Lin Lok)公園」の東側にあります。孫文はマカオの富豪「盧廉若」の支援を受けて革命活動をしていたようです。1892年に香港の医学学校を卒業した孫文はマカオの鏡湖医院で医者として勤め、傍らでマカオの市内の自分の診療所を開設しました。この間革命運動に携わったことにより1894年に清朝政府からマカオ から追放され、それ以降は海外を飛び回る長い革命活動期間に入ります。1911年10月10日漸く辛亥革命が成功し、翌年1月1日南京に中華民国臨時政府が樹立されて孫文は「臨時大総統」に就任しました。しかし同年2月清朝倒壊を契機として臨時代総統の地位を実力者袁世凱に譲ります。孫文は袁世凱を信じて身を引いたのでした。同年5月には孫文はマカオを訪れていますがこの時に妻(盧慕貞)と家族のためにマカオに家を建てることを決めたようです。これはマカオが故郷に近く昔からの有力な支援者の「Lou Lim Ieoc」の薦めがあったからでしょう。1912年8月には袁世凱の招待に応えて孫文は家族共々北京を訪問し名所旧跡を巡りました。そして翌年1913年2月鉄道大臣に任命された孫文は日本を訪問しますがこのときに盧慕貞ら家族も来日を果たしています。この日本滞在中の1913年3月25日袁世凱の独裁を押さえようと活動した孫文の盟友の「宋教仁」が袁世凱に暗殺され、議会を無視して専制政治を目指す袁世凱を打倒するための第二革命が始まりました。盧慕貞ら孫文の家族は日本から帰った後に孫文が建てたマカオの新居で暮らし始めることとなったのでした。
袁世凱に対する第二革命のための中国南部の軍閥が失敗に終わったので、孫文は失意の中で日本に亡命を余儀なくされました(1913年)。この日本滞在中に孫文の支援をしたのが梅屋庄吉夫妻でした。孫文はこの日本
で秘書として身近に接した「宋慶齡」と恋に落ちて宋慶齡と結婚することを決心します。しかしクリスチャンの孫文と宋慶齡が結婚するためには、孫文が妻の盧慕貞との正式の離婚手続きが取る必要がありました。孫文は最初の妻「盧慕貞」に離婚を受け入れてもらうために、マカオの
孫文の邸宅に妻の盧慕貞と3人の子供達
がその後もずっと暮らしていくことや生活資金提供の約束をすること等の手当てをすることで漸く妻の盧慕貞からの同意を取り付け、孫文・宋慶齡の結婚式が1915年に日本で行われたのでした
。因みに盧慕貞は宋慶齡を非常に恨んでいたようです。
孫文記念館(香港) 中山市・マカオの孫文記念館と違って、香港のセンタラルのやや西側のミッドレベルにある「孫文記念館」は建物それ自体孫文とは関係ありません。建物は香港の富豪の「Ho Kom-tong」氏の邸宅であったもので、2006年に孫文の生誕140年を記念して記念館となり、香港 での孫文の暮らしと辛亥革命に関係する事物が展示されることになりました。多分この建物が選ばれた理由は、その建物が立派であることに加えて、孫文が香港で生活していた 時代に毎日のように通っていたと思われる「アバディーン通り(中環鴨巴甸街)」と「ハリウッド通り(荷李活道)」の四つ角に近いことが決め手になったのだと思います。
現在この二つの通りを中心にして孫文に馴染み深い数箇所の場所
が「孫文歴史史跡」とされ記念碑が建てられていて、この史跡を巡る散策コースが設定されています。その散策の最期に少し上にあるケイン通りの「孫文記念館」
を見学すると便利になっていのです。現在その「孫文歴史史跡」は以下の13箇所設定されています。
|
|
15.フィリピンのイフガオ族の神「ブルル」
フィリピンのルソン島の北部の山岳地帯に「イフガオ州」はあります。首都マニラからは北に約300q行ったところで、標高は800mくらいの場所だそうです。そこには原住民のイフガオ族の人々が作り上げた壮大な「棚田」があり、1995年にはユネスコより世界遺産(コルディラ地方の棚田景観 Living
Culture Landscape)に指定されました。この棚田(Rice
Terraces)は2000年もの長期に渡って山岳地帯の急勾配の土地に作られてきたものです。山岳地帯は稲作に適している土地では決して無いのですが、この棚田は2000年前からのイフガオ族の人々の絶えざる努力・工夫で水田地帯となったものであり人類の逞しい生産力の原点です、今でもイフガオ族の人達の生活の基盤となっているものです。(実際に見たわけではありませんが。) |
|
14.杉並区「蓮光寺」と「ネタジ・スバッシュ・チャンドラ・ボース」 インドの多くの都市でインド独立の英雄「ネタジ・スバッシュ・チャンドラ・ボース」(勇ましい司令官姿が殆どです)の像を見かけました。私がインド滞在中に住んでいたムンバイ にも「チョーパティ・ビーチ」近くの交差点脇にボースの像があって通勤途中によく眺めたものでした。首都ニューデリーの「レッドフォート 」は、第二次世界大戦中にボースの指導の下で日本軍と共同して 植民地宗主国イギリスと戦った「インド国民軍(INA:Indian National Army )兵士」の裁判が行われた場所です。その一角にある博物館にはインドお得意の、本物のような人形を使った当時の裁判の様子だとかボースに関する資料が沢山展示されています。
しかし意外なことにそのインド独立の英雄「ネタジ・スバッシュ・チャンドラ・ボースの遺骨 」は日本に残されているのです。インド独立を目指してイギリス軍と戦った「 ネタジ・ スバッシュ・チャンドラ・ボース(以下スバッシュ)」は第二次大戦時の日本降伏直後(8月18日)に台北飛行場での飛行機事故で亡くなり、その遺骨は旧日本軍によって日本に運ばれ て杉並区にある「蓮光寺」という寺に預けられたのでした。終戦後、何度かインド政府の正式な調査が行われたのですが、蓮光寺に安置されている遺骨はインド政府から「ボース本人の遺骨」とは認められず今日に至っているのです。蓮光寺では毎年ボースの命日(8月18日)に法要が営まれており、2008年8月18日には第64回の法要が行われました。
インドは(パキスタン・バングラディシュ・スリランカ等を含めて)第二次世界大戦後の独立まで長い間イギリスの植民地でした。1897年にコルカタ(カルカッタ)の裕福な弁護士の家庭に生まれたスバッシュはカルカッタ大学終了後、イギリスに留学して
1920年に難関中の難関の「インド高等文官試験」
に合格しました。しかし、インド独立運動に身を投ずることを決意したスバッシュは、植民地政府の高級官吏への道を捨てて「インド国民会議
」に参加しました。
当時国民会議派はガンジーの指導の下で非暴力活動を進めていましたが、スバッシュは国民会議派内の若き急進派のリーダとして急激に台頭して国民会議派議長に選出されます。しかし徹底的な非暴力活動を唱える「ガンジー」と路線対立したスバッシュは、単身国民会議を離れインド国外に逃れて独立運動を進めることとなります。スバッシュは当時イギリスに対抗していたイタリア・ドイツ・日本と連携を図ってインド独立のためにイギリスと戦おうと考えたのでした。これに対しガンジーは
、イギリスからの平和的な独立を目指し、まずイギリスと共にファシズムのドイツ・日本の帝国主義と戦うことを選びイギリスに戦争協力したのでした。この流れの延長線上
に現在のインドの政権与党の国民会議派があるということができます。
このような経緯によってスバッシュの遺骨は日本に残っていたインド独立連盟にもたらされました。しかし日本 国内では無条件降伏の後に、これから連合国軍によってどんな仕打ちがなされるのか「戦々恐々」の状態にあったのでした。スバッシュの葬儀を引き受けてくれる寺院を探すことは困難を極めたようです。その時 に敢然と葬儀を引き受けたの杉並区の蓮光寺の「望月教栄師」でした。昭和20年9月18日に 関係者も集まってスバッシュの葬儀が執り行われ、遺骨はそのまま蓮光寺の預りとなったのでした。その後昭和25年のサンフランシスコ平和会議を経て日本の敗戦後の方向性が決まりインドの独立も達成され、蓮光寺に保管されているスバッシュの遺骨に ついても様々な動きがありました。特筆すべきことは蓮光寺住職の望月教栄師、康史師のスバッシュの遺骨に対する真摯で非常に丁重な対応に加えて、大戦中にスバッシュを支援した日本陸軍の「光機関」の方々が中心となってスバッシュの偉業を顕彰する「スバッシュ・チャンドラ・ボース ・アカデミー」を立ち上げられて様々な活動をしてこられたこと、スバッシュが日本に留学のために派遣したインド人兵士達を東京で親身になって世話をされた「江守喜久子」とインド人兵士達の繋がりが戦後もしっかり継続されたことです。スバッシュによって結び付けられた「蓮光寺様」 ・「アカデミー会員の皆様」・「江守様および次女の松島和子様」の献身的な活動と協調があって、毎年の命日の法要などを通して今日までスバッシュの遺骨は日本で守られているのです。 参考文献 これまでインド政府要人が来日すると必ず言って良いほど「蓮光寺様参拝」がなされてきました。そしてインド政府主導の遺骨の調査が何回も行われきました。しか し今日においても「蓮光寺様」が預か っている遺骨がスバッシュのものだとは認定されていません。現在のインド政府与党「インド国民会議派」は「ガンジー・ネルー家」の指導を 基本としており、彼等と路線を異にしていたスバッシュを独立の英雄としてインドに迎えるのは都合が悪いのでしょう。下の記事はインドの新聞に掲載されたものですが、 「スバッシュ捜索委員会のロシア訪問(2005)」の活動を報道しています。
Netaji
probe
panel to visit Russia |
|
13.平将門(とその首塚・胴塚)
将門の胴塚
将門の首塚
天正18年(1590年)「徳川家康」が関東八各国の領主となって関東にやってきました。将門の首塚のある場所は丁度江戸城の大手門を正面にあたりますので、家康は非常に神聖な場所として腹心の部下の土井利勝の屋敷と
しました。そして神田明神は「江戸第一」の社格を与えられ江戸の総鎮守とされました。首塚の地は重要な家臣に屋敷として与えられることが慣例となり、寛文年間には
「酒井雅楽頭忠清」の屋敷となります。1671年(寛文11年)の3月27日には仙台伊達藩の家老「原田甲斐」が「伊達安芸等」を殺害するという「寛文事件」が発生したのはこの屋敷です。(
詳しくは「1」の寛文事件の記事を参照してください。)
|
|
12.上海のリニアモーターカー
ロンヤンルー駅のホームに上がり列車を待っていると私達の乗ることになる列車が本当に静かに入ってきました。 当たり前かもしれませんが列車の騒音は殆ど車輪とレールの接触音なのですね。静かに音も立てずに停車した列車はドアが開けて空港からの客を降ろしました。そして今度は空港への客を乗せます。駅に停車している時に浮いているのか地面と接しているのか分かりません が、発車するときに「浮いた」という感じがぜんぜんしないので最初から浮いていたみたいです。満員の時と空っぽの時の車体の重さは大分違うのしょうから調整が難しいのだろうと思いました。
列車の出発は本当に静かです。走り始めると列車のスピードはどんどん上がっていきます。最高速度は431Kmでした。 数分間431Kmで走ったと思ったら速度が下がり始めて空港到着間近の案内が始まりました。線路は殆どの区間が真っ直ぐなのですが空港の手前に大きなカーブがありました。カーブを抜けるときに列車ははかなり傾きました。 「MagLev」の軌道は地上からかなり高いところに作られているので見晴らしは良いです。地上が遠いために「スピード感」は驚くほどではないです 。にほんの新幹線の方がスピード感があるような気がしました。空港近くで軌道の近くを空港に向かう高速道路が並んで通っている区間があり空港に向かう車と競争する 光景を見ることができます。空港に向かう車が100Km程度で走っている と思われますが、そうした車を驚くほど軽く追い越していきます。
列車内は新幹線より少し広い感じがしました。3列ずつの座席が2列並んでいます。非常に快適です。列車にはトイレなどは付いてい
ません。単に乗るだけ。7〜8分程度なのでそれで十分なのでしょう。上海には市内西の近郊に「虹橋空港」があって羽田から直行便が飛んでいます。でも虹橋空港は設備が古いし、空港からは市内への足は「タクシー」
(最近は地下鉄があるようですが)だけになりますが、その
「タクシー待ち」の列が半端ではありません。それを考えると少し遠くとも「プードン国際空港」は便利だと思いました。 |
|
ソニア・ガンジーは1946年にイタリア北部のヴェネト州トリノ近郊の「オバサンジョ」の「マイノ家」に生まれました。彼女は平凡な家庭に育ち
、地元の高校を卒業してから「英語」の勉強をするため1964年にイギリスのケンブリッジの語学学校に留学しました。彼女はその町のレストランで
ウェートレスとして働いて学費を稼ぎながら学校に通っていたのでした。1964年10月のある日曜日の夜ソニアは友人と晩御飯を食べにギリシャ料理レストランに行き、そのレストランでケンブリッジ大学に留学してい
るという一人のインド人留学生と出会ったのでした。出会ったというよりそのインド人青年がソニアに一目惚れし、その後ずっとソニアの職場のレストランに通い詰めて熱烈な恋を告白し続けたので、イタリア人ウエイトレスが終に根負けしたということが本当の話のようです。 ラジブ・ガンジーは全く普通の学生であり、ケンブリッジ卒業後は飛行機パイロットとして働き始めました。ラジブは「インド独立の英雄ネルーの直系の孫 」ではありましたが、ソニアにしてみれば政治的野心の全くない誠実でハンサムなインド上流階級の紳士と結婚したということになります。というのも、ラジブには「サンジャイ」(Sanjay Gandhi)という弟があり、こちらは長男とは正反対に活動的で政治家の資質があった ので、母のインディラは次男のサンジャイを後継者として育てていたのでした。ソニアはラジブと結婚後、義理の母でありインド首相であるインディラとの関係を上手に切り回すとともに、ラジブとの間に二人の子供 ((注)長男はラウル、長女はプリヤンカ)をもうけ、幸せな家庭を築いていたのです。ソニアはラジブと結婚する条件として「ラジブは決して政治活動はしない」ということを約束させていたのでした。(注)Rahul Gandhi 1970年生まれ、Priyanka Gandhi 1972年生まれ)
ところがラジブの「しっかり者」の弟の「サンジャイ」が1980年に飛行機事故で亡くなってしまいました。
サンジャイの死で「ラジブ」に後を託すしかなくなってしまった母インディラはラジブ・ガンジーを政治の世界に引っ張り込むことにしたのでした。政治の世界に疎かったラジブの運命が非常なスピードで回転し始めたのでした。ラジブは1981年の総選挙で国会議員に当選して「母インディラのアドバイザー」として政治の世界に足を踏み入れました。
そして当時母インディラの政治権力は磐石であったので、暫くの間はインディラの下で「帝王学」をじっくり学ぶことになるはずでした。 ラジブの葬儀の模様 インディラ・ガンジー記念館(ニューデリー)
ソニアは夫ラジヴの死後数年間「喪」に服していたのですが1997年に国民会議党に入党しました。本来政治活動に全く興味がなかったソニアですが、国民会議党は彼女の「カリスマ的人気」に目をつけて国民会議党の代表に祭り上げてしまったのです。しかし
一方でソニア自身が長くインドで生活したことによってインド国民にたいする愛情が徐々に深まってきていたのだと思います。彼女はインドに来てから公式の場所ではサリーを
必ず着て通しましたし、インド料理を母のインディラから教えてもらって楽しんでいたようです。
ニューデリーのインディラ・ガンジー記念館には、インディラとラジブが暗殺された時に身に着けていた血に染まった民族服が展示されています。「夫と義理の母 」をテロによって失ったソニアが、自ら首相の地位に着く決心をし 、そしてあっさりと辞退したのでした。しかしソニアのインドの人々に向ける眼差しが真摯で非常にやさしく、インドの人々はマハトマ・ガンジーを慕うようにソニア ・ガンジーを愛しているように思えます。 現在ソニアの長男の「ラウル」が政治修行中です。遠からずに国民会議等の重要な地位を与えられることとなると思います。 (しかし、この長男ラウルはラジヴと同じように政治家には向かない資質の持ち主にようです。世襲的な指導者擁立の修正がなされるかもしれません。)
|
|
10.シバ ・リンガム(Shiva Lingam)
これはヒンズー教の「シヴァ神」の象徴の「シバリンガム」といいます。「シヴァ神」は「ビシュヌ 神」と並んで、現在のヒンズー教徒の間で絶大な人気があります。現代のヒンズー教を大きく括ると「シヴァ派」と「ビシュヌ派」に分かれるといっても良いくらいのようです。ヒンズー教の神々ではその二人に「ブラフマン」を加えて 3人の神様をセットにして考えることがあります。「ブラフマン」が「創造」して「ビシュヌ」が「維持」して「シヴァ」が 「破壊」すると役割が分担 されています。「シヴァ神」は「破壊」を分担していることで分かる通り、非常に力が強く、暴力的でさえあります。度々3人の神様の中で「シヴァ神」が最も強大だと言われています。 「シバ神」はヒマラヤの山の中に住んでいて、「 力が強い上に厳格で」なので少しとっつき難い性格の神様です。これと反対に「ビシュヌ神」は「クリシュナ」という愛らしい神様にも生まれ変わるとされ、どちらかというと「人間的で身近な感じ」がするのです。このような神 様の特徴から「ビシュヌ派寺院」は現世利益的で「現役」の寺院という感じがしますし、「シバ派寺院」は世俗からかけ離れた感じで「精神性」が強い感じがするのです。 一方で「シヴァ神」はしっかりした家族構成を持っています。妻はしっかり者でシヴァ神でさえ頭が上がらない「パルバティ」、長男の賢 くて真面目な「ガネーシュ」、次男は行動派 で力の強い「スカンダ」 です。この4人の家族はそれぞれ特徴を持っています。 妻の「パルバティ」は良妻賢母の代名詞のように言われますが、時には「嫉妬」に狂ったり、凶暴になったりします。「カーリー神」はパルバティが凶暴化したものです。 頑固親父でとっつき難い「シバ神」に対して、そのシバ神を上手にコントロールし息子二人の有名な神様を育て上げた「パルバティ」の人気は相当なものです。ガネーシュ神は「象」の顔を持っています。彼は賢い長男という設定です。学問だとか商売の神様とされています。インドの商都「ムンバイ」には「ガネーシュ」を祀った「シッディ・ビニャーヤク寺院」があり 人々の信仰を集めています。「スカンダ」は 運動神経抜群の活発な弟という設定で、時には「ものすごい」パワーを発揮します。スリランカ南部のヒンズー教聖地の「カタラガマ」は「スカンダ神」を祀っています。 「シヴァ・リンガム」の言われは以下のようなものです。ある時、ブラフマン・シヴァ・ヴィシュヌの3人の神が誰が一番偉大なのかを決めようと、4人のベーダの神に訪ねたところ、シヴァが最も偉大であるという答えを得たのでした。しかし、ブラフマンとヴィシュヌがそれを受け入れないので、シヴァは偉大さを示すために、とんでもない長さの「光の柱」に変身したのでした。その光は天から地獄まで達するものでした。そこでヴィシュヌは「猪」に変身し地面を掘って、ブラフマンは白鳥の背に乗って空高く飛んで、その先端を探しに行ったのです。しかし1000年旅しても、その終わりを見つける事ができませんでした。二人が諦めて戻ってくると、シヴァは「シバリンガム」のサイズになって迎えました。ヴィシュヌはシヴァの偉大さを認めたのですが、ブラフマンはまだ納得しませんでした。 気の短いシヴァは、怒ってブラフマンの5つに首の1つを切り落としてしまったのです。ブラフマンの首はシヴァの腕に噛み付いて離れなくなりました。これに困ったシヴァは様々の難行苦行をし ますが、「ベナラス (バラナシ)」に苦行して漸くブラフマンの首を腕から離すことができたのだそうです。それ以来ヴァラナスは「シヴァ神」崇拝の一大中心地となったのです。このシバリンガムは3つのパートからなってい ると言われています。一番下が「ブラフマン」、真ん中で貫かれているのが「ヴィシュヌ」、貫いている円柱状の棒が「シヴァ」です。
インドタミールナド州のブリハディーシュワラ寺院のシヴァリンガム
「シヴァ派寺院」にはこの抽象的な「シヴァリンガム」を祀っている所がたくさんあります。これに対しビシュヌ派寺院には人間の形をした「ビシュヌ像」が様々な名前を付けられて祀られている場合が多いです。多くの参拝客を集める「ティルパッチ」「スリランガム」などの寺院はビシュヌ派寺院で
「ビシュヌ像」を祀っています。ビシュヌは多くの化身を持ちますが有名なものが「クリシュナ」とか「ラーマ」です。これらの化身の神々は「人間の人生」を
辿ります。これらの化身の行動を通して「人間こうあるべし」という教えが伝えられます。これに対し「シヴァ派」寺院はその本尊が「シヴァリンガム」であることが多く非常に抽象的で哲学的でさえあります。さらに「シバリンガム」とならんで有名な「ダンシング・シバ」はヒンズー哲学を体現している
と言われています。 |
|
9.信州・上田八日堂の蘇民将来
長野県上田市にある八日堂(信濃国分寺跡)で売られる「護符」です。六角形の6つの面に「蘇民・将来・子孫・人也・大福・長者」と書いてあります。
上の二つは八日堂本堂で年中販売されているものですが、正月7日・8日の縁日では「八日堂の講」の人達が製作する「胴体に絵を描いた蘇民将来」が売られます。その特別な蘇民将来は非常に人気が正月縁日
が始まって直ぐに売切れてしまってなかなか手に入れることはできません。
上田市に住んでいた時にこの縁日に八日堂へ参拝に行き、絵模様の或る「特別な蘇民将来」を買おうとしましたが、物凄い人出で動くのもままならない状態で結局買うことが出来ませんでした。 「蘇民将来」「巨丹長者」という名称も非常に変わっているし、この八日堂のものは形が変わっていて非常に興味深いものがあります。インターネットで調べてみると、全国各地に「蘇民将来」のいわれは残っています。「板」の護符が多いようです。また「牛頭天王」は「スサノウの尊」の生まれ変わりとする説があるようです。それがなぜ「牛の頭」なのか。不思議です。牛といえば
「シバ神」の乗り物の「ナンディ」が有名ですが、こうしたインド神話と「関係」があるのでしょうか。 |
|
8.我が家の雛人形 | |
我が家の雛人形です。娘(と最近は妻)のためにほぼ毎年飾ってきました(小さいので
我家の電子ピアノの上に飾ることが出来ます)。
狭い社宅住まいの時に娘が生まれたので、その後も引越しが多く、社宅住まいが暫く続くだろうし、大きな
雛人形(段々になっているやつ)では邪魔になるので、小さい人形にしようと考えました。立派な雛人形を買うお金も無かったことも事実ですが、娘の雛人形を思いで深いものにしたかったので、色々考えた末に「自分で作ろう」ということになりました。 |
|
7.スウェーデンのDaLa Horse 2003年4月スリランカの通信会社に出向していた時のモバイル通信の子会社のM社の設備増設を更改する仕事に参画しました。設備製造メーカ「エリクソン社」の本社のあるスウェーデンのストックホルムに出張し、スウェーデン政府関係機関に対してエリクソン社設備投資資金の保証を依頼する交渉の仕事をしました。無事設備資金保証を得ることができスリランカコロンボの銀行団からも長期資金を獲得してM社の携帯電話設備更改が成功しその後のその通信会社グループの発展の基礎を築くことができたと思っています。スリランカのコロンボからスイスのチューリッヒ経由でストックホルムまで旅をしたのですが、インドがやたら広くて随分インド上空を飛行しているなと驚いたものでした。 折角ストックホルムまできたのだから何か記念に買って帰ろうと思い、町の土産物屋さんを物色したところ、 日本的な懐かしい色彩の素朴な馬の人形が売っていたので買って帰りました。それが下の写真の「Dala Horse(ダーラホース)」です。日本の「赤べこ」とか「チャグチャグ馬っ子」のような素朴な工芸品です。
この「ダーラホース」はスウェーデンの首都ストックホルムの北西にある「ダーラ地方」の「シルヤン湖
(Siljan)
」の近辺の村々で昔から作られてきた人形だということです。冬場は厳しい天候のために家にいる時間が長いので暖炉の傍らで残り木から子供用の玩具を作ったのが始まりだそうです。
1922年にパン屋を営んでいたオルソン兄弟の長男(Grannas Anders Olsson)の「グラナス 」がダーラホースの製造のための工場を設立たのが本格的な「ダーラホース」の生産開始でした。9人兄弟のグラナスの二人の弟の「ニルスとジェインズ 」も兄の仕事を手伝いはじめます。1928年グラナスの結婚を期にニルスとジェインズは独立してダーラホースの製作を始めたようです。当時ニルスが15歳、ジェインズが13歳でした。今でも 「Olsson」家の子孫達がダーラホースを作り続けています。以下のオルソン社のホームページ詳しい歴史等が記載されています。 ダーラホースの製造工程は大きく分けて3つの工程があるようです。まず大きな部材(松だそうです)から鋸で大まかな「馬」の形を切り出します。次にクラフトナイフで細かい馬の形を掘り出し整形します。そして最期に絵付けです。絵付けは基本の色(赤・黒など)の絵の具に浸して着色した後にダーラホース独特の文様をペイントしていくようです。これらの仕事は分業されていてそれぞれの工程のスペシャリストがいるようです。これに比べて日本の「こけし」製造の場合は、木の切り出し・削りから顔・胴の彩色まで一人のこけし職人が全てこなします。従ってこけしのプロポーションとか顔の描き方に工人の個性が出るのでこけしの魅力が飛躍的に増します。この製造過程の違いは大きいと思いました。 |
|
6.ジョホール海峡のCauseway 2003年3月29日東南アジア各地で「SARS」の影響が危ぶまれる中、「シンガポール家族旅行」を決行したので した。 私は赴任先のスリランカのコロンボから、妻・長男・長女の3人は東京から、シンガポールのチャンギ空港に飛んでそこで待ち合わせました。地下鉄による移動とかオーチャード通り散策など定番の観光はできるだけ避け、人出が少なそうな場所を選んで観光しました。 「シンガポール動物園」に行く前に、動物園からさほど遠くないシンガポール・マレーシア国境を見てみようと シンガポール北部の「ウッドポイント」の国境検問所に行きました。歩いてマレーシアに入国しようとする人達が予想外に多かったので、「それほど大変な距離でもないだろう」と考えて、歩いてマレーシアのジョホールバルまで行ってみようということになったのです。こういうこともあろうかパスポートを持ち歩くこととしていました。
上の写真はシンガポール・マレーシア国境のジョホール海峡を横断する「Causeway」の様子です。一枚目はシンガポール側からマレーシアに入るところ、二枚目はマレーシアからシンガポールに入るところです。この日は土曜日だったので、シンガポールから
対岸マレーシアの「ジョホールバル」へ買物に行く人、実家へ帰る人、観光に行く人等の車の数が多くてマレーシア入国検問所を先頭にものすごい長さの渋滞の列ができていました。また「Causeway」の歩道も荷物を抱えてマラレーシアに向かう人たちが、カンカンと照りつける日差しの下
を黙々と歩いて渡っていく姿が印象的でした。日本人観光客が観光気分でブラブラ歩く場所ではないです。
|
|
5.Perfume Pagoda(香寺:ハノイ市郊外の寺) ベトナムの首都ハノイ市の西南約70Kmのところに「香寺(Phuong Pagoda)」という仏教寺院があります。ハノイ市民にとっては新年(旧正月)を迎えた後の約1カ月の間にここへ参拝に行くことが新年の行事だそうです。ちょうど旧正月を挟んでハノイに滞在するチャンスがあったので休日の「日帰りツアー」に参加して参拝してきました。ツアー料金は20米ドルだったと記憶しています。 (1998年2月7日参拝)
ハノイ市内から「香寺 」に行くには車とボートを乗り継いで片道4時間かかります。まず窓がガタガタ言うオンボロミニバスで2時間陸路行くのですが、舗装されていない道をかなりのスピードで走るので正直 言って快適とは程遠いひどいドライブになります。 そして少し開けた川の船着場(上写真)でバスを降り、そこからボートで約2時間川を遡ります。ボート は左の写真にあるように小さな鉄製の「手漕ぎ」です。この「人力ボート」の他にエンジンの付いた少し大きな船があります。こちらはずっと早いのです。ベトナムのボートの漕ぎ方は日本と反対 なので非常に驚きました。一人の漕ぎ手がボートを漕ぐ場合には身体を前に倒してオールを前に押して進みます。漕ぎ手にとっては自分の正面に進むわけ ことになります。身体を大きく前に倒すことになるのでとても大変そうです。それも2時間も漕いでいるのですから。
このボートの船旅は趣があります。ボートが向かっていく山々が非常に変わった形をしているし、川の両側には水田やら畑やらノンビリした風景を楽しむことができるのです。更に「漕ぎ手」 が大変苦労しているところも見ることができます。エンジン付きボートに乗っている人達は得意げに追い越していきます。
香寺(フォン寺:The
Huong Pagoda )は、香山(フォンソン)あたり一帯にある13の寺の総称です。英語で「Perfume Temple」と紹介されていますが
、そんなロマンチックなところはひとつもありません。
この正月の香寺参拝は、こちらの峰の寺からあっちの峰の寺へというような山歩きしながら多くの寺を参拝するハイキングなのです。
峰の細い山道を多くのベトナム人が列を作って歩いていく姿は壮観でもあります。日本の正月と同様にハノイでも正月は「飲んで食って」過ごすため身体が鈍ります。そんな身体を「仕事モード」に戻すのは格好の運動になります(観光客が二度行くところではないと思いました)。 |
|
4.会津の勝常寺 会津盆地のほぼ中央、会津若松市の西北に平安初期の仏像 を多数安置していることで有名な「勝常寺」があります。仙台勤務時代に見学に行って来ました。 京都から遠く離れた東北の会津になぜ平安時代の仏像が多数のこされているのか。実は会津盆地は「阿賀川」経由で新潟に繋がっていて、新潟からは海路で京都に通じてい るので、京都の文化が入って来ることができたのです。寺の記録によると大同2年(807)に「徳一和上」によって開山されとのことです。
現存する勝常寺の講堂は応永5年(1398)に再建されたもので
、「会津中央薬師堂」と呼ばれているそうです。そこに安置されている仏像はいずれも寺が創立された当時から伝えられたもので、「木造薬師如来、日光・月光の両脇侍像(1996年に国宝指定)
」の薬師三尊像が有名です。私達は事前連絡なしに訪れたのでご住職は不在で奥様に対応していただきました。寺宝の平安仏は少しはなれた収蔵庫に収められています。奥様によると文化財の維持には相当
の金が掛かる(補助が少ない)とのことで、過度な湿気と温度差が良くないので収蔵庫はあまり開けないとのこと。突然の訪問で少し迷惑そうでしたが、仙台からわざわざ来た旨をお話して収蔵庫を開けてもらいました。 |
|
3 .暗越(くらがりごえ)奈良街道
大阪で勤務していた時期には大阪市東部の東大阪市の「枚岡
」に住んでいました。枚岡は河内平野の東端が生駒山にぶつかるところで
、住んでいた社宅は急な坂の始まりにありました。最寄り駅は近鉄奈良線の平岡駅(この駅は既に山の中腹にあります)。東側は生駒山の急な山肌に繋がっていました。大阪
・神戸への転勤者向けには兵庫県西宮辺りに沢山の社宅があったのですが、私は昔から仏像・神社仏閣を訪れることが好きだったので、
関西で暮らすことができたからには神戸方面ではなく「奈良県」寄りの場所に社宅を探してもらったのでした。
その結果割り当ててもらったのが平岡市の社宅だったのです。
この道は国道とは名ばかりの「道幅が狭く・勾配がきつい」大変な道でした。
道幅が狭い殆ど部分では車のすれ違いはできないので、対向車が出くわすと途中いくつか設置されている行き違いができる広い場所までバックしてで対向車を待たなければなりません。車は一旦止まるとすごい
緊張を強いられる「坂道発進」をしなければなりませんでした。妻が大阪で「胃潰瘍」になった原因の一部分はこの道を何度も通ったからかも知れません。
東大阪市と奈良県生駒市の境の生駒山の峰です。
しかしこの道はあまりに峻険なため、正式な外国使節とか位の高い政府の役人が通ったとはとても考えにくい道です。たぶん緊急連絡用の道だと思います。外国使節到着を知らせるため、あるいは遣隋使・遣唐使の身分の低い随行員が
急ぎの用のために通った近道であったのでしょう。大阪のある銀行の役員をされていたアマチュア万葉集研究家の「扇野聖史」さんが「万葉の道(全四巻)」という本を書かれていて、奈良を中心とした古代の「道」のことが図解・写真を駆使して詳しく紹介されています。
その本の中でこの国道308号線を「古代の国道一号線」と呼ばれていますがまさしくぴったりの表現だと思います。万葉集とそれを詠った人々に思いを馳せた素晴らしい本で奈良近辺散策のおりに随分参考にさせていただきました。
|
|
この「玉山祠」に「大きな すっぽん」の剥製が陳列されています。ホアンキエム湖に住み着いていた「すっぽん」だそうで甲羅の長さは2m以上あるので、「浦島太郎」もこれ 位の亀なら、十分に乗ることができるような大きさです。ハノイ市は河川や湖が多く、暖かい気候で食べ物も豊富なので「すっぽん」は大きく育つようです。
仕事で出張した折のハノイ滞在の最期の日でしたが、ホアンキエム湖の南の部分に普段は見られない人だかりがしていました。急いで見に行ってみると、なんと「玉山祠」に陳列されている亀と同じ くらいの大きさの「すっぽん」(それ以上かもしれません)がゆっくり湖の浅いところを泳いでいました。顔の大きさだけでも 「バスケットボール」くらいの大きさがありました。たまに後ろ足が水面に現れますが、頭から足まで2m程度ありそうでした。ハノイの人達もめったに見ることができない「 巨大すっぽん」ということで多くの市民が集まって興奮状態でした。後で現地の人に聞いてみると「あのスッポンを見えると良いことがある」ということでした。ハノイ滞在最後の日に 幸運な「スッポン」を見ることができたのは大変幸運だったと思います。急いでシャッターを押したのが下の一枚です。写真の中央付近の湖からでている物が亀の頭です。岸から20m以上離れていてこれ位の大きさに写るのです。水面に亀の頭が出ています。 下の写真はホアンキエム湖の北側の旧 市街内にある「ホーチミンの家」です。観光案内書で紹介しているものを見たことがありません。地元の人によると「ホーチミン」が青年時代に住んでいた家だそうです。建物の中には「ホーチミン」の銅像と何枚かの写真とみやげ物売り場があり、入場は無料でした。別のところにある「ホーチミンの遺体」が安置されている「ホーチミン廟」は警官が常時警備していて、地方から出てきたベトナム人観光客も含めて見物客の 長い行列ができていて、休日に入場するには一時間以上待たなければなりません。一方こちらの「ホーチミンの家」は中に入る観光客はほとんどなく、単なる「みやげ物屋」風でそれと気付かずに通り過ぎるひとが多いようです。
|
|
「縛地蔵」 社宅のある場所から広瀬川の川原の方へ少し下ったところに「縛り地蔵」を祭ったお堂がありました。そこは「伊藤七十郎重孝」を祀った地蔵堂です。伊藤七十郎とは寛文事件が発生する前 (初期段階)に、後の寛文事件で一方の主役となる「伊達兵部宗勝」を暗殺しようとして捉えられ斬首になった人物です。縄で縛られた伊藤七十郎は片平の街から「鹿の子清水坂」を下って川原の刑場まで連行され刑場で斬首されました。通常斬首されると 胴体は前に倒れるところを「仰向けに」倒れたという言い伝えがあります。その刑場跡に縛り地蔵が奉られたのだそうです。今でも荒縄で縛られたコンクリート 製の地蔵がコンクリート造りの地蔵堂に祀られています。ちょうど広瀬川が大きく外側に蛇行し て川幅が広くなって流れが緩やかになるところなので水遊びに適していているところです。当時小学生(片平丁小学校)だった娘がその近くでよく「めだか」を取りました。
「寛文事件」
仙台伊達家の三代藩主「伊達綱宗」が乱行の末に幕府から逼塞を命ぜられたため、
まだ幼少であった「伊達綱村」が四代藩主(当時二歳)に据えられ
ました。この時に幕府の裁定によって幼少の藩主後見となったのが「伊達兵部宗勝」です。当時の幕府は四代将軍「徳川家綱」の時代であり、三代将軍家光が幕政安定の基礎を築いた後
に、有力な幕府重臣による文治政治が始まろうとしていました。その中心人物が大老の「酒井雅樂助忠清」でした。
江戸時代の三代家光時代にはお家騒動が発端で有力な外様大名の改易が相次ぎましたが、次の徳川家綱の時代には幕府政治は急速に安定期に向かいつつありました。しかし外様の大藩「仙台伊達62万石」のお家騒動だけに、幕府に裁定を申し出ることは「藩取り潰し」の危険を伴うもので
した。伊達安芸宗重が伊達藩重臣間の争いをなぜ幕府に訴えたの出たのか理解に苦しむ所です。そして寛文事件の悪役張本人の「原田甲斐」
の立場です。私も山本周五郎の「樅ノ木は残った」を読んで寛文事件に興味を持つようになりました。山本周五郎のストーリーは原田甲斐に藩主への忠臣の役割を与えました。つまり原田甲斐は伊達兵部の腹心であるという
立場を貫き通して自ら「乱心」したと見せかけ「伊達安芸宗重」を切り殺す刃傷事件を起こすことによって、自分の派閥の領袖「伊達兵部
」を失脚させて仙台伊達62万石を守った「悲しき英雄」であると設定し
たのでした。この「樅の木は残ったファン派」の歴史好きは多いのではないかと思います。仙台駅から
自宅まタクシーで帰ったことがありました。歴史好きな運転手さんとの車内話が「米が袋」とか「片平武家屋敷」の話から「寛文事件」及びました。その運転手さんは
非常に断定的に「原田甲斐は正真の悪者だ」と言っていました。「樅の木は残った」が非常に有名になった今でも仙台ではも「原田甲斐悪玉説」が一般的だということを知りました。
その「原田甲斐」の屋敷跡は青葉区片平丁を少し北に行った所、現在の「仙台高等裁判所」の場所にありました。今でも当時の原田家の石垣が残っています。春は邸内に植えられた桜がとても綺麗で 、お城に向かう片平の道に西側に広瀬側が迫っている高台にあるので美しい広瀬川を見渡せたことでしょう。寛文事件の主犯の「原田甲斐」一族は「六親九続七世」に及んで処刑され、原田家ゆかり 家屋敷の全てが破壊されました。もちろん片平丁の原田甲斐の屋敷も破壊されたのでした。しかし屋敷建物でもっとも堅牢に作られていた正面の門 が壊すことが出来ずに唯一残ってしまったのだそうです。というのも解体作業は難航し、作業に従事した人夫が不慮の事故で怪我をしたり、変死するものも出たと伝えられているようです(これは平将門首塚移転の際の話に似ています)。 当時伊達家からの信任の厚かった「荘厳寺」(東北大学病院から北に伸びる新坂町にある)の住職が原田甲斐一門の霊を供養するためにこの門を荘厳 寺に移築することが許され、「悪を善に転じる」ために柱を上下逆様にして移築したのだそうです。 下の写真が原田甲斐屋敷から荘厳寺に移築された「正門」です。太くて非常に上等な材木を使って作られた堂々たる門です。 寛文事件の罪で片平にあったこの門の外側で、原田家一族多くの処刑が行われたのだそうです。その光景に立ち会った門です。
最近になって調べて面白かったことを記載しておきます。「原田甲斐」の酒井忠清屋敷における刃傷事件は「甲斐の気が狂った」振る舞いであったという評価が一般的なのです。ではなぜ「気が狂ったのか」。それは酒井忠清屋敷の中庭に「平将門」の首塚に潜んでいた「将門の怨霊」が「原田甲斐」をして刃傷事件に至らしめたのではないかと想像を豊かにしています。実は原田甲斐に切り付けられて命を落とした「伊達安芸宗重」の祖先は東国「千葉氏」の氏孫で、平将門の父「平良将」の弟の「平良文」の氏孫だったのでした。「平将門」が中央政府に反旗を翻すことになるそもそもの原因は父「平良将の領地」を巡る兄弟間の争いでした。「平良文」は「良将」の味方であったという歴史が有力のようですが昔のことは分かりません。非常に執念深い将門の怨霊が嘗ての敵の氏孫である「伊達安芸宗重」に気付き、居合わせた「原田甲斐」を利用して敵を討ったというストーリーが真実ではなかろうか・・・なんて考えているこの頃です。 |