ムンバイの拝火教徒社会について

(拝火教寺院等の写真が下にあります)



 

インドのムンバイには数万人程度の人口を持つ「パルシー」と呼ばれている人達がいます。彼等の宗教はゾロアスター教(拝火教)。信者の数は世界全体でも10万人程度 、インド全国で6万人強の信者がいるそうです。ムンバイにはその半分以上が住んでいます。ムンバイは世界中でゾロアスター教徒が最も多く住む都市なのです。

ゾロアスター(拝火教)は最初カスピ海東部地域で発生したようですが、歴史に登場するのは、紀元前6世紀に成立した「アケメネス朝ペルシャ」の時代です。この王朝を築いた「キュロス大王(Cyrus the Great)」は非常に寛大な名君であったので、彼の庇護の下でゾロアスター教はイランを中心に中東全般に広がっていったようです。キュロス大王(インドではサイラスと発音しています)はバビロンを征服し 、そこに幽囚されていたユダヤ人を解放したことに加え、奴隷を解放し、人類最初ともいえる「人権憲章」を作ったのでした。この碑文の書かれた円柱が1879年に発見され、本物は大英博物館にそしてレプリカがニューヨークの国連本部に置かれているのだそうです。

アケメネス朝ペルシャの支配地域はエジプト・ギリシャから中東・カスピ海東部・インダス川西部に及ぶ広大な地域でした。政治と宗教の関係が詳しくはわかりませんが、宗教にはかなり寛大であったとことが想像されます。そんな環境の中ゾロアスター教も多くの宗教の中でひとつであったと思われます。ゾロアスター教は「アフラ・マツダ」を唯一の「神」とする「一神教」であるという点は、ユダヤ教が一神教であるという点と共に非常に重要でしょう(マツダ自動車の名前もここから由来しています)。アケメネス朝ペルシャではダレイオス一世の時代にその最盛期を迎えました。この王は有名なペルセポリスの都を建設したことで知られています。そしてダレイオス3世の時代(紀元前4世紀)に新興国マケドニアの英雄アレキサンダー大王に破れ(イッソスの戦いBC333)、衰退の道を歩むことになります。その後アレキサンダーはエジプトをも征服し「アレキサンドリア」を建設するとともにペルシャの都を破壊しました。

しかしアレキサンダーの死後この地域は混乱することになります。一方でヨーロッパは文明の進んでいたペルシャから多くの有形・無形の宝をヨーロッパに持ち込み 、先進地域であったペルシャに追いついていきます。そしてペルシャが混乱している間に、ローマ帝国がその帝国範囲を急拡大していくのです。アレキサンダー大王死後中東地域は数百年間混乱しま した。バビロンから開放された「ユダヤ教」、そして「ゾロアスター教」が広まりますが中小国の成立・破壊の世の中で宗教もまた混乱していたことが想像できます。そして「イエスの誕生」を迎えるのです。

キリスト教誕生の背景でユダヤ教と並んでゾロアスター教が大きな影響を及ぼしていたことが想像できます。東方の3博士はゾロアスター教徒であったとされています。その後中東地域全体を統一したのはササン朝ペルシャ(3世紀)でした。キリスト教が西のローマ帝国に拡大していったこととは対象的に、このササン朝ペルシャで支配的な勢力となったのがゾロアスター教でした。境を接する小アジアではビザンチンに拠点を置く東ローマ帝国がキリスト教を国教として成立していったのでした(4世紀)。

暫くササン朝ペルシャとビザンチン帝国が東西向かい合うようなの形での並立が続いていきます。そして7世紀アラビア半島に「モハメッド」が現れてイスラム教が創始されます。イスラム教はモハメッドの近親者を子孫を通じて徐々に中東全体に広まっていきました。それらの国ではイスラム教の伝道者(カリフ)が王となるわけですがそうしたカリフの中から有力な王が出現しました。中でも「アッバース朝」は非常に有力で比較的大きな地域を統一し、現在のバグダットの地に都を定めてイスラム王国を建設しました。

アッバース朝衰退の後に中東地域・イラン地域を支配したのがセルジュクトルコ朝でした。ササン朝ペルシャの衰退以降中東イラン地域は急激にイスラム教の影響が強くなっていきます。そうした状況の中でゾロアスター教徒たちはイスラム教の飲み込まれていったものと思われます。11世紀のイランの詩人「オマール・ハイヤーム」の有名な詩にもゾロアスター教のことが出 てきます。彼はイスラムの詩人とされますが彼を隠れたゾロアスター教徒だとする説もあります。

そしてイスラム支配に耐えかねた少数のゾロアスター教徒が11世紀にイランを出てインドに向かいました。このイラン脱出はインドのゾロアスター教徒の中では非常に重要な叙事詩となっています。イランを逃れてインドにやってきたこれらの人々が インドで 「パルシー」と呼ばれる人たちです。ゾロアスター教とヒンドゥー教が非常に似ているところがあったのです。二つの宗教はともに紀元前3000年頃カスピ海東部地域に発生し、ゾロアスター教はイラン方面にヒンドゥー教はインド方面に広まっていったもので元は共通するものがあったようです。

困難な旅路を乗り越えて、イランを逃れたゾロアスター教徒はインドの西海岸の 「サンジャン」に定住しました。この時のインドの王との出会いの光景は有名なものとして語り継がれています。インドの王様は漸くインドにたどり着いたゾロアスター教徒にコップ一杯に注いだミルクを差し出して「インドは貴方にミルクを提供して迎えるが、貴方はインドに何をしてくれるのか」と問いただしたのだそうです。ゾロアスター教徒はそのミルクを飲まずに、そこに砂糖を加えて混ぜ合わせ王様にそのまま差し出したのだそうです。インドの王はパルシーの人達を受け入れたのですがいくつかの条件をつけました。

ヒンドゥー教徒をゾロアスター教に改宗させないこと。
パルシーの女性はインドの伝統的な衣装のサリーを身に着けること・・・などです。

このルールからパルシーの男性の子孫しか「パルシー」には成れません。パルシーの女性が他の宗教の人と結婚するとその子供はパルシーには成れないのです。従ってインドのパルシーの人口は減少傾向になります。さらにパルシーの女性の「サリー文化」は インド人顔負けの大変華やかなものになっています。

この民族的に苦労してきたパルシーの人たちの中には優秀な方が多かったようです。イギリスは植民地支配にあたってこのパルシーの人々の力を利用したのです。イギリスはポルトガルからムンバイ(ボンベイ)を貰い、ここを進出する基地として開発していったのですが、その際に多くのパルシーがムンバイに移り住みました。そんな訳でムンバイ市には近郊地域も含めて47の拝火教寺院があ るのです。この数は全世界拝火教寺院の40%にあたるそうです。拝火教寺院には他の宗教徒は決っして入ることができません。インド10億人の7割程度を占めるヒンズー教徒もこの中には絶対に入る事が許されず一種に治外法権の場所 となっています。ゾロアスター教徒の宗教儀式は他の宗教の人達には全く「なぞ」なのです。聖なる「火」を祭るといわれる「ゾロアスター教寺院」に加え、「鳥葬」が行われる「沈黙の塔」がひっそりとですがムンバイには存在しています。パルシーの人達の暮らす居住区もところどころにあります。

ムンバイパルシー社会の情報はこちらから得られます。http://parsiana.com/



ムンバイゾロアスター教関連の写真

「Bhiwandiwala」寺院

ムンバイでも非常に重要な拝火教寺院なのだそうです。「ドービタラオ交差点」の少し北側にあります。メトロ映画館の少し北側にあ たります。ごちゃごちゃした街中なのですが非常に堂々とした建物です。 この寺院の少し北側に「サンダルウッド」などの拝火教参拝用のグッズや、ゾロアスターのポスターなどを売る店があります。



 

「A.K.Khan交差点の拝火教寺院」

マリンドライブから陸橋を超えて街中に入ってくると最初の交差点が「A.K.Khan交差点」です。その角にあります。小さいですが小奇麗な拝火教寺院です。庭に 立派な彫刻が置いてあります。向かいのマンションに登って写真を撮りました。
 



 

「フォートの拝火教寺院」

ムンバイの昔からのビジネス街のフォートにある拝火教寺院です。非常に古い建物だそうです。



 

「クイーンズロードの拝火教寺院」

建物の屋根に「聖なる火」の装飾があります。建物横の歩道橋に登ると近くから装飾を見ることが出来ます。


「ケンプスコーナー近くの拝火教寺院」

ムンバイ高級住宅街の交差点「ケンプスコーナー」近くの寺院です。屋根の上の「火」を表す装飾が印象的です。これも古い建物です。



 

「フォートにあるパスシー祈念堂」

ビジネス街の道に堂々と建っている建物です。車を遮るように建っているのです。即ち、この建物の方がビジネス街より古いということのようです。但し、かなり朽ち果てています。保存して欲しいと思います。屋根の上には時計台があります。



 

「コラバ地区のパルシー住区」

ムンバイの下町「コラバ」のメインストリートに面する門です。この奥がパルシーの人達の住宅となっています。非常に堂々とした門です。



 

「ビクトリアガーデン近くのパルシー住区」

ムンバイ動物苑のある「ビクトリアガーデン」近くのアパートです。小奇麗なアパートが立派な門の中にあります。



 

「ブリタニアレストラン」

ムンバイで一番有名なパルシー料理店です。昼食時のみしか営業していなくてディナーはありません。日曜日も休み。大衆料理店という感じです。値段も手頃です。 出前もやっています。ナッツやドライフルーツを使ったブリヤニ風の食べ物が美味しいです。



 

「ブリタニアレストランのご主人とお孫さん」

ムンバイで一緒に仕事をした社員(パルシー)の友人が、この店のお孫さんでした。お孫さんと店のお爺さん。インド人らしくない顔をしています。



 

「ブリタニアレストランの料理」

ムンバイのオフィスで昼食を注文しました。イランから輸入しているという「干ブドウ」などを使った「ご飯料理」が美味しいのです。 ムンバイ近海でとれる魚のフライもパルシー料理の定番になっているようです。



 

「ムンバイの典型的なパルシー料理」

ムンバイで駐在員事務所を開設したのですが、最初に入居した貸事務所の「オーナ」が(詳しくは奥様が)パルシーの方で、随分親切にしていただきました。そのオーナー に招待されて頂いた夕食です。魚のフライはムンバイ独特の物です。とても美味しかったです。



 

「パルシーの人達のサリー」

パルシーの女性は特にサリーを大切にするようです。これは有名なタージホテルのパーティ(ダイヤモンド商人主催)の時の写真。事務所の大家さんファミリーです。昔の高価なサリーを着ることがステイタスのようです。



 

「Bhiwandiwala寺院前のオジサン」

拝火教寺院の前ではこのようなオジサンが「木」を売っています。パルシーの人達がここで「木」を買って、寺院の中の火にくべるようです。最も高価な「木」は白檀「サンダルウッド」です。



 

「ビクトリア駅近くのビル」

ムンバイのメインストリートにあるビルです。ゾロアスター教独特の装飾が非常に立派です。



 

「沈黙の塔」の門(The Tower of Silence)

ケンプスコーナ近くにある「沈黙の塔」の入り口。門は交差点にあり、この門から細い道が丘に続いています。これ以上中に入ることはできません。ここは現役の「沈黙の塔」なのです 。

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