ムンバイの拝火教徒社会について
(拝火教寺院等の写真が下にあります)
|
|
インドのムンバイには数万人程度の人口を持つ「パルシー」と呼ばれている人達がいます。彼等の宗教はゾロアスター教(拝火教)。信者の数は世界全体でも10万人程度
、インド全国で6万人強の信者がいるそうです。ムンバイにはその半分以上が住んでいます。ムンバイは世界中でゾロアスター教徒が最も多く住む都市なのです。
キリスト教誕生の背景でユダヤ教と並んでゾロアスター教が大きな影響を及ぼしていたことが想像できます。東方の3博士はゾロアスター教徒であったとされています。その後中東地域全体を統一したのはササン朝ペルシャ(3世紀)でした。キリスト教が西のローマ帝国に拡大していったこととは対象的に、このササン朝ペルシャで支配的な勢力となったのがゾロアスター教でした。境を接する小アジアではビザンチンに拠点を置く東ローマ帝国がキリスト教を国教として成立していったのでした(4世紀)。
アッバース朝衰退の後に中東地域・イラン地域を支配したのがセルジュクトルコ朝でした。ササン朝ペルシャの衰退以降中東イラン地域は急激にイスラム教の影響が強くなっていきます。そうした状況の中でゾロアスター教徒たちはイスラム教の飲み込まれていったものと思われます。11世紀のイランの詩人「オマール・ハイヤーム」の有名な詩にもゾロアスター教のことが出
てきます。彼はイスラムの詩人とされますが彼を隠れたゾロアスター教徒だとする説もあります。
このルールからパルシーの男性の子孫しか「パルシー」には成れません。パルシーの女性が他の宗教の人と結婚するとその子供はパルシーには成れないのです。従ってインドのパルシーの人口は減少傾向になります。さらにパルシーの女性の「サリー文化」は インド人顔負けの大変華やかなものになっています。
この民族的に苦労してきたパルシーの人たちの中には優秀な方が多かったようです。イギリスは植民地支配にあたってこのパルシーの人々の力を利用したのです。イギリスはポルトガルからムンバイ(ボンベイ)を貰い、ここを進出する基地として開発していったのですが、その際に多くのパルシーがムンバイに移り住みました。そんな訳でムンバイ市には近郊地域も含めて47の拝火教寺院があ
るのです。この数は全世界拝火教寺院の40%にあたるそうです。拝火教寺院には他の宗教徒は決っして入ることができません。インド10億人の7割程度を占めるヒンズー教徒もこの中には絶対に入る事が許されず一種に治外法権の場所
となっています。ゾロアスター教徒の宗教儀式は他の宗教の人達には全く「なぞ」なのです。聖なる「火」を祭るといわれる「ゾロアスター教寺院」に加え、「鳥葬」が行われる「沈黙の塔」がひっそりとですがムンバイには存在しています。パルシーの人達の暮らす居住区もところどころにあります。 |
|
|
|
|
「Bhiwandiwala」寺院 |
|
「A.K.Khan交差点の拝火教寺院」 |
|
「フォートの拝火教寺院」 |
|
「クイーンズロードの拝火教寺院」 |
|
「ケンプスコーナー近くの拝火教寺院」 |
|
「フォートにあるパスシー祈念堂」 |
|
「コラバ地区のパルシー住区」 |
|
「ビクトリアガーデン近くのパルシー住区」 |
|
「ブリタニアレストラン」 |
|
「ブリタニアレストランのご主人とお孫さん」 |
|
「ブリタニアレストランの料理」 |
|
「ムンバイの典型的なパルシー料理」 |
|
「パルシーの人達のサリー」 |
|
「Bhiwandiwala寺院前のオジサン」 |
|
「ビクトリア駅近くのビル」 |
|
「沈黙の塔」の門(The Tower of Silence) ケンプスコーナ近くにある「沈黙の塔」の入り口。門は交差点にあり、この門から細い道が丘に続いています。これ以上中に入ることはできません。ここは現役の「沈黙の塔」なのです 。 |