マドゥー(Madhu)教会の聖母マリア


 スリランカの北西部、マナー島(Manner Island)の付け根にあるマナーから少し南東内陸部へ約30Kmに入ったところにMadhu(以下マドゥー)があります。 あたり一体は自然保護区(Madhu Road Sanctuary)となっています。殆ど未開のようなジャングルの中に、そこだけ整備された広い平地があり、そこに立派なカトリック教会が建っています。これがスリランカだけでなくインドから巡礼者が訪れるという「Madhu Church」です。

 

 スリランカ政府軍とLTTE(タミール人反政府組織)の内戦が続いていた頃(2009年に終結しました)スリランカ北部は、LTTEが実効的に支配地域 していて、スリランカ国内であってもスリランカ南部の人々にとっては「外国」に近い場所でした。 この民族紛争は和平ムードが盛り上がった時期があれば、対立が厳しくなってテロが発生したりそれに対する報復攻撃が激しく行われて交流が絶たれたりする場合がありました。私がコロンボに住んでいた時期は2002年の停戦合意の後 の和平模索が行われた時期だったので、LTTE支配地域へ往来が可能となっていました。それでもLTTE支配地域に入る ためには政府・LTTEの両方の許可が必要でした。

 

  スリランカ北部は地理的にインド南部のタミール・ナド州と非常に近いことから、昔からインド・タミール人との交流が頻繁でインドのタミール(ドラビダ)文化が入って来た地域なのです。スリランカ南部に住むシンハラ人の人達は自分達はインド北部民族との関係が深い(仏教徒であればそのように考えるのも理解できます)と信じていますから、インド 国内における北部(ヒンドゥー)と南部(タミール)の「摩擦」がそのままスリランカにも反映されている面があります。

 

 南インドのタミール・ナド州の州都チェンナイには、イエスの12使徒のひとりのセント・トーマスの墓の上に建てられたという「セント・トーマス教会 」があり、有名なヒンドー教寺院が沢山あることに加え、キリスト教の影響も色濃く残っている地域です。そして、インドのゴアに拠点を構えていたカトリック教会イエズス会の宣教師達 が、インド・タミール人がスリランカとの往来に利用して ルートでスリランカ布教にやって来たのだと思われます。従ってタミール・ナド州に近いスリランカ(特に北西部)がキリスト教の影響を強く受けキリスト教徒が増えて、この地域にキリスト教会が沢山建てられたことはことは容易に想像できます。
 


 スリランカの首都コロンボからは北部マドゥー に行くためには車で約300Km走ることになります。大まかなルートは以下のようになります。
     @ コロンボからクルネガラ (A1,A6ロードで約80Km)
     A クルネガラからダンブッラ(A6ロードで約60Km)
     B ダンブッラからマドワッチ(A9ロードで約80Km)
     C マドワッチからマドゥロード(A14マナーロードで約50Km)
     D マドゥーロードからマドゥー教会(ジャングルの道を約15K北上

 マドゥーロードの北側直ぐに所にスリランカ政府の検問があります。そこを抜けるとLTTE支配地域となり、ジャングルのデコボコ道を約15Km走ります。マドゥーロードからの15Kmの道は、両側が大自然のジャングルです。道の舗装の状態は名ばかりで車は時速30Km程度で走るのが限度 となります。この厳しい道を30分ほど走るとジャングルのど真ん中に忽然と開かれた平地が現れるのでビックリしてしまいます。上の写真は「マドゥー教会」に程近い道です。

 この日は夜明け前にコロンボを出発しました。スリランカ国内を長距離移動する際には、深夜の道路が空いている時間帯に車のスピードをあげて走ることになります。この日はマドゥーのスリランカ政府陸軍駐屯地まで走りそこで休憩して朝食を頂きました。昼食はマドゥー教会でフィリップ神父から心のこもった美味しい昼食を頂きました。魚のフライが供されましたがマドゥーは海に近いため豊富な魚介類が食べられる場所だということを知りました。
 


 マドワッチからマナーに繋がっている「A14マナーロード 」ではLTTE支配地域と政府軍支配地域の境界線が幹線道路のすぐ北まで迫っています。そういう緊迫している地域なので道路を舗装し直すような余裕は無 いらしく道路の状態は非常に悪いです。このマナーロードの北側を道路に沿うように鉄道が走っていました。スリランカ北部に向かう鉄道はヴァウニアの直ぐ北 当たりを北限にして破壊され途切れています(2014年末にジャフナまで復旧しました)。マナーに向かう鉄道も 鉄の線路が無くなっていて嘗て鉄道が亜はしっていた痕跡だけを確認できるだけでした。従ってマドゥー 教会を目指す巡礼者にとっては巡礼の旅は非常に困難が付き纏うものとなっています。下はLTTE検問所近に設置された看板です。マドゥー教会への巡礼は朝の7時から夕方5時30分までに限られています。 その時間内にこの地域から出ないと門が閉ざされてその日は政府軍支配地域に戻れなくなります。

 




教会敷地内のスリランカテレコムの無線電話設備収容所

 マドゥー教会のある地域にはこれまで全く電話設備がありませんでした。携帯電話も全く通じません。 そんな不便な地域でも(だからこそ)、毎年7月・8月の巡礼の季節には10万人を超える巡礼者が訪れるのだそうです。教会の人々と巡礼者のにとって、今回の電話解説は緊急通話等に大いに役立つものと期待されています。今回マドゥー教会の全面的な協力の得て、教会の敷地を借りて無線電話設備を建設すること ができたのでした。その設備開所式に合わせて出かけるチャンスを得たというわけです。 
 

設備開所セレモニー(フィリップ神父)
 

 開所式にご出席されたマドゥー教会のフィリップ神父に教会を案内して頂 きました。また神父から英文のマドゥー教会案内冊子を頂いたのでその中に書かれている教会の由来等を基にしてマドゥー教会の歴史を紹介します。

 キリスト教が最初にスリランカに伝わったのは1544年だそうです。フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を紹介した のが1549年なのでそのほんの数年前のことです。当時スリランカ北部はジャフナ王国の支配下にありました。インドの南東部海岸 (ゴア)においてポルトガル人「聖フランシスコ・ザビエル(St.Francis Xavier)」の「不思議な教え」の噂がスリランカ北部マナー地区に伝わり、この地区の人々がザビエルにスリランカを訪れるように使者を送ったのだそうです。

 インドのゴアに滞在していたザビエルは非常に多忙であったため、一人の神父を自分の名代でスリランカに派遣しキリストの教えを伝えたのでした。 当初は約600名のスリランカ人がキリスト教に帰依したということです。ジャフナ国王のキリスト教迫害は相当激しいものがあったようですが、キリスト教の信仰は 人々の間で広がって行き、1583年には26の教会が設置され4300名の信者が居たということです。 ヒンドゥー教・仏教の信仰心の厚い人々だからこそキリスト教への理解・帰依を容易であったのではないかと想像されます。

 参考までに16世紀にポルトガル人がスリランカに初上陸してkらの歴史を振り返ってみます。最初にポルトガル人がスリランカに現れたのは「1505年11月15日」だそうです。ポルトガルはインド東部でムーア人と抗争を続けていたのですが、 その軍隊の一部がスリランカにやってきたのでした。その当時のスリランカには3つの王朝がありました。コッテ王朝(コロンボ近郊)・キャンディ王朝(中部山岳地帯)・ジャフナ王朝 (北部)の3つです。この三王朝はコッテ王朝を中心にして平和的に共存していました。ポルトガルはまずコッテ王朝に取り入り、当時スリランカ南部で盛んだった「シナモン」貿易で富を 築きました。ポルトガルは3王国の国王の跡目争いや他王朝との関わりに口を挟みつつ次第に勢力を拡大していきました。 様々な抗争の結果、コッテ王朝とジャフナ王朝はポルトガルに屈し、ポルトガルに反抗するのはキャンディ王朝だけになってしまいました。

  しかし、「1638年」ポルトガルとライバル関係にあったオランダ人がスリランカにやってきてキャンディ王朝と手を組み、ポルトガル軍に対して共同で戦うことになったのです。そして1658年ジャフナのポルトガル支配地域が陥落してスリランカのポルトガル人支配が完全に取り除かれ、オランダとキャンディ王朝は協定を結び平和共存関係を確立したのでした。しかしオランダ人は 直ぐにその和平協定を破棄してしまうのです。

 このオランダの 一連の侵攻がマンタイカトリック教会に大きな影響を及ぼしました。マンタイにあった「聖母マリア像」はオランダ人の迫害を逃れるためにジャングルの奥深くのキャンディ王国内 の秘密の場所に隠されたのです。その時にはカトリック聖職者は既にスリランカから消え去り、20人のカトリック信者達が「マリア像」を守って避難したということです。その場所こそが「マドゥー」でした。


マドゥーの聖母マリア像

 その頃、北部のジャフナ 王国ではもうひとつの動きがありました。ジャフナ半島でオランダ人から迫害された約700名のカトリック教徒が迫害を逃れるために南下してきてジャングルを彷徨っていたのでした。偶然にもこの一団が「マドゥー」にやって来て「聖母」に出会ったのです。この一団の中にポルトガル総督の娘で 「ヘレナ」という信心深い女性がいて「聖母」のために小さな教会をつくったのだそうです。これがマドゥー教会の始まりなのだということです。 1656年から1686年の間オランダ人の迫害でカトリック聖職者が追放されてしまったため、スリランカにはカトリック聖職者不在の期間が30年続いたのです。

  1706年にはマドゥー教会はキリスト教のひとつの聖地に数えられていました。さらに1796年イギリスがオランダを完全に駆逐したことから、スリランカにおけるカトリックキリスト教の新しい時代がはじまりました。 植民地支配者の変遷によってカトリック信徒は辛い迫害を受けたため、「マドゥーの聖母」はスリランカのカトリック教徒たちにとって信仰の象徴なようなものになっているのだそうです。 国内外から多くの巡礼者を集めるのも納得できます。

 話は飛びますが、私の故郷長野の善光寺も全国から多くの信者を集めています。善光寺の周囲には多くの宿坊が、あり巡礼者達の宿となっています。その善光寺寺の本尊にも興味深い「言われ」があります。 仏教伝来間もない頃に、仏教崇拝と国支配権を巡って「曽我氏・物部氏」戦争が勃発し、そのあおりでインドから伝来したとされる大切な「仏像」が大阪の「難波の堀」に遺棄されてしまったのだそうです。その「仏像」を拾ったのが、たまたま 大阪に来ていた信濃の人「本田善幸」だったのです。彼は仏像を都から遠く離れた信州に持ち帰って寺に安置しました。これが今の「善光寺仏」なのです。この「善光寺仏」のご託宣は有名で、聖徳太子も困ったときには「お伺い」を立てたという記録があるのです。 大事な聖像が都から遠く離れた地に運ばれてそこの寺に安置され、後代に多くの信者を集める聖地となるという話は、多くの地域にあるようです。


マドゥー教会の聖母マリア像
 


フィリップ神父から頂いたマドゥー教会解説書

 


フランシス法王がマドゥー教会訪問

 2015年1月13日から3日間の日程で「フランシスローマ法王」がスリランカを訪問しました。忙しい日程の中フランシス法王は14日に「マドゥー教会」に足を伸ばし、そこに集まった多くのスリランカ国民と共にマドゥー教会の「聖母マリア像」に祈りを捧げました。上の写真はネットにアップされていた法王訪問時のマドゥー教会の様子です。スリランカでは法王訪問の前週に実施された「大統領選挙」において、民族融和・社会の安定を訴えた「パイトリパラ・シリセナ氏」が現職の「ラジャパクサ氏」を破りました。新しい大統領の本で民族融和に向けて動き出したスリランカの人々にとって、「フランシス法王」の訪問・激励は非常に在り難いものだったと思います。
 

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