クララ・ハスキル写真館
Clara Haskil Photo-Room 



 


 クララ・ハスキル(1895-1960)は20世紀を代表するピアニストの一人だと思います。我が家にモーツァルト ・ベートーベンのピアノ曲を中心に何枚かのCDがありますが、 モノラル期及び初期ステレオ期の古い録音を通して、独特な「繊細で」かつ「愛らしい」ピアノ音楽を聞くことができます。そして敬虔ともいえるほどの彼女の音楽への関わりを感ずることができます。 ハスキルのCDジャケットの多くはハスキル晩年の写真を使っているので、若い頃はハスキルがどんな感じの女性であったのかわかりませんでした。しかし買い集めていくうちに彼女の若い頃の写真をジャケットに使ったCDにも出会いました。若い頃のハスキルはそれは非常にチャーミングで美し く、当時パリでピアノを学んでいた頃のハスキルの華やかな青春時代に思いを馳せることができます。

 ルーマニア出身のクララ・ハスキルは10歳から芸術・文化の中心パリでピアノを学びました。そして15歳でパリ音楽院を卒業しました。若くて美しい天才的ピアニストが華々しく活躍する様を想像するとちょっと興奮します。しかし 、彼女が本格的に音楽界で活躍できる期間は残念ながら闘病生活に奪われてしまいました。病気との戦いは彼女の人生を大きく支配するものとなりました。 そして病気に加えて、ヨーロッパにおけるナチスの台頭・第二次世界大戦はユダヤ人であるハスキルに過酷な運命をもたらしました。

 同じルーマニア出身のディヌ・リパッティとは深い友情に結ばれていたようです。しかし そのリパッティの天才は若くして白血病 に奪われてしまいました。ハスキルは最後までリパッティを見守っていたと思われます。ハスキルとリパッティの音楽からは逃れられない運命に直面したときの人間の強さと孤独感を聞き取ることができ ると思います。そして一方で限界に追い込まれたときの人間の本当の友情、やさしさを感ずることができると思うのです。
 

Clara Hasikil   (1895.1.7 〜1960 12.7)
1895  ルーマニアのブカレストのユダヤ系中産階級の家に生まれる(1月7日)。 3歳からピアノを母から学ぶが同じ年に父親を亡くす。
1901 ブカレスト音楽院に学ぶ。叔父の「Avram Morcusnr」の支援を受けて6歳で最初のコンサートを開催。
1902 叔父のアブラム・モルクスナーに連れられてウィーンに行き、ピアニスト「Anton Door」に認められる。ルーマニア女王の奨学金を得てヴィーンでピアノとヴァイオリンを学ぶ。 ウィーンではジョージ・セル、ルドルフ・ゼルキンの教師となったRichard Robertにピアノを学ぶ。
1905 叔父の後見でパリでJoseph Morpainに学ぶ。
1907 パリ音楽院でAlfred Cortot, Lazare Levyに学ぶ。
1910 パリ音楽院を首席で卒業(15歳) 。その試験官はアルベニス、フォーレ、モシコフスキー等であった。その後ヨーロッパ各地で演奏会を行い絶賛される。
1913 脊柱彎曲症を発病し演奏活動を中断。(18歳)
1918 23歳までフランス北部のベークで4年間療養。
1920 スイスで療養した後パリに戻って演奏活動再開。しかし病気のために演奏できなくなるのではという恐怖に襲われるようになる。
1924 初めのアメリカ演奏旅行。
1926 初めのイギリス演奏旅行。この年末アメリカに渡り、ストコフスキーとシューマンのピアノ協奏曲を競演。
1927 叔父の「アブラム・モルクスナー」とパリで暮らす。
1933 ヒトラーが ドイツで権力掌握。
1934 叔父の「アブラム・モルクスナー」を亡くす。
1935 「The Princesse de Polignac」のサロンにおいて同郷の「Dinu Lipatti」と出会 う。Lipattiは1934年のヴィーン国際ピアノコンクールにおいて2位となりこれを不満とするCortotの招待で1939年までパリ音楽院に学んでい た。
1939 リパッティがパリを去りルーマニアに戻ってしまう。
1941 ナチスによるパリ占領に伴いパリを脱出し、マルセイユへ逃れる。マルセイユでひどい頭痛と視力低下に 襲われる。
1942 マルセイユで脳腫瘍摘出手術。ドイツ軍 がフランス全土を占領したためスイスのVeveyに転居。
1944 リパッティ「肺結核」療養のためにスイスのモンタナで静養。
1946 第二次世界大戦終戦後パリに戻り演奏活動を再開。
1949 スイス国籍を取得。演奏活動を通して世界的な名声を得る。
1950 プラードのカザルスフェスティバルに初参加。
1951 ザルツブルグ音楽祭に初参加。9月リパッティ死去
1953 プラードでグリュミヨーと共演。 以降1960年までデユォ活動を継続。
1960  パリのグリュミョ-とのパリでのコンサート(12月1日)のあと汽車でブリュッセルに向かい駅で転倒。そのままブリュッセルで客死 (12月7日)。
 


寒い季節の写真ですね。洒落た帽子と毛皮のコートを着ています。非常にファッショナブルな感じです。知性的で美しいポートレイトです。ハスキルは1905年から1940年までパリに住んでいました。 若くて美しくそして天才的なピアニストがパリの音楽界でどんな生活を送ったのでしょう。



 

ジャケット写真としては厳しい表情です。病気の後でしょうか痩せて目が鋭くなっています。髪形は独特で一見「風呂上り」みたいです。



 
1927年ハスキル32歳の写真だそうです。ハスキルは1913年(18歳)から1918年(23歳)まで、脊髄の病気のためフランス北部のベークで療養生活を送りました。その後パリに戻りますが、演奏会 において病気のために演奏が中断してしまうのではないかという恐怖に襲われてしまいます。

1957年ザルツブルグでのピアノリサイタルの録音では、一曲目のモーツァルトのハ長調ソナタ冒頭でのミスタッチが録音されています。リサイタル冒頭でのこのようなミスタッチはさぞハスキルを苦しめたことだとうよ思われます。

下の写真も同じ時期に撮られたようです。丸首の黒い服を着て髪を後ろで束ねています。横から見るとけっこう鷲鼻ですね。


 
 

 

この写真は何時の頃のものか分かりません。左手はしなやかですが、鍛えられた強靭な筋肉が感じられます。また指が随分長 く、大きな手をしていると思います。


「Clara Haskil ピアノコンクール」ページ掲載の写真です。

右手がはっきりと写っていますが、非常に指が長いです。
 


「チャップリン、ハスキル、カザルス」

ハスキルは1943年にスイスの「Vevey」に転居しています。チャップリンは1953年にアメリカからスイスのVeveyに移 りました。カザルスは1939年スペイン内乱に際して故郷を離れてフランス南部のプラドに住んでいました。その後1955年にはプエルトリコに移 りました。

「左から、カザルス, オーナ(チャップリンの奥様), Clara Haskil, Marie José of Italy, チャップリン」

カザルスの手前の少女チャップリンの三女の ビクトリアだそうです。オーナとチャップリンは1943年に結婚し(チャップリン54歳、オーナ18歳)、ビクトリアは1951年4月生まれであることから、この写真は1955年 頃に撮られたと思われます。イタリア王女の「マリア・ホセ」はベルギー王家の出身でイタリア皇太子と結婚。1946年5月に皇太子が国王に就任しますが翌月6月に王政が廃止されたため、一ヶ月間だけ王女であったという方です。



 
 

「リパッティ、ハスキル、バックハウス」  

リパッティは1944年から1948年までGeneva音楽院の教授職にありました が、病気の悪化で1949年からスイスのモンタナで療養生活を送ることとなりました。バックハウスは1933年スイス・モンタナに移住するとともに1946年スイス国籍を取得してい ます。

畠山睦雄さんが書かれた感動的な本「ディヌ・リパッティ」には、1949年9月に「ハスキルがヴヴィからモンタナに見舞いにやってきて、バックハウスとも会うことができた」と書かれています。この写真はこの時に撮られた写真だと思われます。

リパッティ、バックハウス、ハスキルは3人ともほぼ同じ身長のようです。

 



 
「ハスキルとリパッティ」

上の写真もそうですが、リパッティはとても美男子で洒落ている一方、ハスキルはあまりヘアスタイル・服装にあまり拘っていない感じを受けます。

1955年(60歳)のハスキル



 



 

1960年(65歳)のハスキル



1949年のハスキル
 



 



 



1943年(48歳)のハスキル
既にスイスのVeveyに転居している時代です。



 



 


1941年、ヒトラーに手に陥落したパリからマルセイユに脱出。
 

inserted by FC2 system