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ガリーナ・ヴィシネフスカヤさんは2012年12月11日死去されました。86歳でした。 第二次世界世界大戦、その後の東西冷戦下のソ連を生き抜き、まさしく動乱の20世紀を代表するソプラノ歌手であったガリーナ・ヴィシネフスカヤさんが亡くなりました。「ガリーナ自伝」にはガリーナ さんのたくましい生き様が語られています。歴史の生き証人がまた一人亡くなりました。ご冥福を祈ります。 記録映画「人生の祭典」日本上陸、ロストロポーヴィッチ氏が死去されました。 2007年4月21日「ガリーナ・ロストロポーヴィッチ」の人生を記録したドキュメンタリー「人生の祭典」が日本で封切られました。 私も初日に見に行ってきました。ロストロポーヴィッチと夫人ガリーナの人生を振り返った映画ですが、ロストロポービッチの映像が大半を占めていました。その一週間後の4月28日 、ロストロポーヴィッチの死が伝えられました。映画の中では相変わらず陽気で元気な姿を見せていましたが非常に残念です。 |
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インタビュー記事「最初の報酬は一杯のヴォッカと一皿のスープでした」 (勝手に翻訳) | |||
ガリーナ・ヴィシネフスカヤへのインタビュー記事の日本語訳。2005年12月のロシアの新聞「Times News」記事を勝手に翻訳しました。エフゲニーナ・ウルチェンコ(Yevgenia
Ulchenko)さんの質問にガリーナが応えたインタビュー記事です。2006年はガリーナが80歳の誕生日を迎え、ムスチィスラフ・ロストロピーヴィッチとの結婚50周年の年にあたりました。
(Y)貴方は、戦争、封鎖、空腹、貧乏生活、国外追放などを経験してこられたが、それらが貴方の性格および運命にどのように影響を及ぼしたと考えますか。 |
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ガリーナ・ヴィシネフスカヤについて | |||
実はガリーナ・ヴィシネフスカヤの事が気になってはいたのでした。世界的なチェリストのムスチラフ・ロストロポーヴィッチの奥様ですが
、何故か旦那と同等かそれ以上の存在感があるのです。夫婦で旧ソ連から追放され西側に移ってきました。西側に亡命してからガリーナがロストロポーヴィッチのピアノ伴奏で歌曲のコンサートを開いていた事は何かで読んで知っていました。
大昔の記憶ですが、来日した時にロストロポーヴィッチのピアノ伴奏による歌曲のリサイタルの模様をテレビでみた覚えがあります。何を歌ったのか全く憶えていませんが、世界一のチェリストに伴奏させるなんて「凄い」歌手なんだろうなと考えた記憶があります。そして彼女はかつて
は旧ソ連が誇ったボリショイのプリマであったことを知ったのでした。 ガリーナの歌声は凄いです。「声」もそして「心」が凄いです。 ガリーナの声は低音から高音まで同じような声質をしています。高級な外車のエンジンが梗塞で走っている高い回転数からでも簡単に加速できるような感じです。それとロシア語は分かりませんが分からないなりに 歌に説得力があると思えます。多分「詩」の意味が良く考えられていると同時に発声法(子音)が素晴らしいので聞き取りやすいからでしょう。ガリーナは正規の 音楽教育を受けていないということですが、こういう歌手が出てくるところに「ロシア」(あえて旧ソ連とは言いません)の底力があるのだと思います。 息子に頼んで大学の図書館から「ガリーナ自伝」(みすず書房)も借りてもらって読みました(この本は定価5200円もして浦和の図書館には無かったのです 。この後中古本を入手しました) 。この伝記は大変面白いです。ガリーナは旧ソ連のスターリンの死の直後からソ連崩壊前夜まで戦い続けていたのです。彼女の歌の凄さの背景が分かりました。因みにこの本は1987年出版で1990年のソ連崩壊前です。その本の中で「ロストロポーヴィッチが1970年に当局を批判した公開質問状の中に20年後の体制変更を予感させる記載がある」と言っています。とても興味深いです。とにかく、捜していたソプラノ歌手に出会えてとても嬉しい感じです。ガリーナ自伝からヴィシネフスカヤの略歴を作りました。 |
ガリーナ・ヴィシネフスカヤの略歴(ガリーナ自伝等より) | |
1926年 | 共産主義者の父と、ジプシーとポーランド人の混血の母の長女としてレニングラードに生まれる。3歳の時に両親が離婚したので父方の祖母に育てられる。小さいころから歌の好きな子供であった 。 |
1929年 | トロツキー追放(1940年暗殺者によって殺される)。これ以降スターリンの独裁体制が堅固なものとなっていく。 |
1936年 | 10歳の誕生日に母に会い「エヴゲニー・オネーギン」のレコードと蓄音機をもらい初めてオペラを聞く。 このレコードでエウゲニーオネーギンの全パートを暗記することとなる。 |
1937年 | ショスターコービッチ交響曲第5番初演。この作品により当局はショスターコービッチの名誉を回復。一方スターリンの知識人・富農への迫害が頂点に達する。(〜38年) |
1941年 | ドイツ軍がソ連に侵攻しレニングラードはドイツ軍によって封鎖される。 |
1942年 | 封鎖されたレニングラードに取り残され飢餓状態のところを救われて女性防衛隊に入隊する。 |
1943年 | ソビエト軍がレニングラード封鎖を解除する。ヴィボルク文化会館の舞台照明係助手の職を得る。その後リムスキー・コルサコフ音楽院に入学するも良き師にめぐり合えず退学。 |
1944年 | レニングラード州オペレッタ劇団に入団。そこの監督マールク・イリイチ・ルーピンと結婚(18歳)。長男を出産するも二ヶ月半で死亡。 |
1948年 | 劇団がソヴィエトのレパートリーを上演するようになって退団。コンサートの仕事を開始。夫マールクは彼女のマネージャとなる。この間に声楽教師「ヴェーラ・ニコラーエバナ」に出会いソプラノの発声法を習得する。この年プロコフィエフ、ショスターコーヴィッチが再び批判される。 |
1951年 | 肺結核を発病するも「ストレプトマイシン」で命を取り留める。 |
1952年 | ボリショイ劇場の青年グループのコンクールを受験。アイーダを歌って採用される。ベートーベン「フィデリオ」のレオノーレの役を与えられる。この頃のボリショイ劇場は連邦随一の劇場であったが同時にスターリンの強い影響下に置かれていた。 |
1953年 | 「エヴゲニー・オネーギン」のタチアーナを歌う。プロコフィエフ、スターリンが死亡。 |
1954年 | 「フィデリオ」に出演、レオノーレを歌う。ショスターコーヴィッチと交友を深める。 |
1955年 | ロストロポーヴィッチと出会う。チェコスロバキア、ユーゴスラビアに巡業する。この旅でロストロポーヴィッチと親密になり結婚。 |
1956年 | フルシチョフがスターリン批判(第20回党大会)。この年にロストロポーヴィッチとの間に長女誕生。 |
1958年 | 第一回チャイコフスキーコンクール開催。この成功によってショスターコービッチの名誉が回復される。この年次女が生まれる。 |
1960年 | 初めてのアメリカ演奏旅行。カーネギーホールのコンサートは大成功。 |
1961年 | メトロポリタンで「アイーダ」「蝶々婦人」を歌う。アメリカ公演はその後1965年、67年、69年の3回 。この年のエジンバラ音楽祭出演の際にベンジャミン・ブリテンを知る。 |
1962年 | ブリテンの「戦争レクイエム」のソロに招かれるが、ソヴィエト当局に反対されて出演できず。翌年ロンドンで録音。 (テノールはフィッシャーディースカウ) |
1964年 | ボリショイオペラのミラノ公演。「スペードの女王」「戦争と平和」に出演。その後ミラノスカラ座の「トゥーランドット」で 「リュー」を歌う。 |
1966年 | ソヴィエト社会主義共和国連邦人民芸術家の称号を与えられる。この年ショスターコービッチと協演。 映画「カテリーナ・イズマイロバ」に主演。 |
1968年 | ソヴィエト軍がチェコ侵攻。直後にロストロポーヴィッチはロンドンで「ドヴォルジャーク」のチェロ ・コンチェルトを演奏することとなる。この年「ソルジェニツィン」と交友を結び、彼 に自分達の自宅の「離れ」を提供する。 |
1970年 | カラヤンと「ボリス・ゴドゥノフ」を録音。ソルジェニツィンがノーベル賞受賞。ソルジェニツィンを擁護し自宅に匿う。ロストロポーヴィッチがソ連 の4つの新聞社編集長へ「公開質問状」を発表。この中で彼は「例えば20年後に今日の新聞を恥ずかしそうに隠す必要ないようにするために・・・」 として1990年のソ連崩壊と符号するような記述を行っている。 |
1971年 | ボリショイで「トスカ」を歌う。レーニン賞を受賞。 |
1973年 | ソルジェニツィンが追放される。KGBの監視が強まる。当局から圧力で演奏機会が極端に減少。 |
1974年 | アメリカの「ケネディ上院議員」がブレジネフに直接談判。ガリーナとロストロポーヴィッチがソビエト出国。 |
1978年 | ソビエト連邦議会はガリーナとロストロポービッチの市民権を剥奪。 |
1982年 | 最後の公演として「エウゲニー・オネーギン」タチアーナをパリで歌う。 |
1984年 | 「ガリーナ自伝」発表。ロシア語の出版は1991年 |
1990年 | ゴルバチョフ政権がガリーナとロストロポーヴィッチの市民権を復活。 |
2002年 | ガリーナオペラ学校をモスクアにオープン。 |
2006年 |
ガリーナ80歳。ロストロポーヴィッチとの金婚式。2本の映画に出演。 |
ガリーナ・ビシネフスカヤのCD・DVD (家にあるだけ) | |
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ベンジャミン・ブリテン作曲 「戦争レクイエム」
ピーター・ピアーズ(Ten),ヴィシネフスカヤ(Sop),ディースカウ(Bar)
ブリテンとヴィシネフスカヤの出会いは1961年のオールドバラ(英)音楽祭であった。ロストロポーヴィッチ伴奏によるヴィシネフスカヤのコンサート聴いたブリテンが、特にヴィシネフスカヤの歌を作曲中の「戦争レクイエム」に入れようとしたものである。ブリテンは第二次世界大戦で被害の大きかった「イギリス・ドイツ・ソ連」の歌手を招くことを念頭において作曲していたのであった。ヴィシネフスカヤが英語で歌った経験がないことを知ったブリテンはソプラノのパートだけを「ラテン語」で書くことになった。初演は1962年5月30日にコヴェントリー寺院で行われることとなった。しかしソ連当局の参加不許可によってヴィシネフスカヤは初演に参加することができなかった。ヴィシネフスカヤはその一週間前までイギリスのコヴェントガーデンで「アイーダ」を歌っていたのであるがソ連当局は帰国命令を出したのであった。そして翌年1963年の1月に漸くロンドンのアルバートホールで歌う機会を与えられたのであった。(ガリーナ自伝より) |
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Mussorgsky 1.Hopak (recorded in 1976) 2.Lullaby (recorded in 1976) 3.Darling Savishana (recorded in 1976) 4.Songs and Dances of Death (orch by Shostakovich) (recorded in 1977) Rimsky-Korsakov Piano & Direction: Rostropovich |
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Sergei Rachmaninov 1.The Night is mounful 2.Oh, never sing to me again 3.Music 4.Spring Waters 5.Vocalise Michail Glinka 1.Doubt 2.I remember the wonderful moment 3.How sweet it is to be with you! 4.To her 5.No sooner did I know you. 6.Night in Venice 7.The Lark 8.Barcarolle recoded in 1976 Piano: Rostropovich |
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Giuseppe Verdi 1.Aida's aria (Aida Act I) 2.Aida's Romance (Aida Act II) Giacomo Puccini 1. Madame Butterfly's Monologue (Madam Butterfly Act II) (1960) 2.Final Scene (Madam Butterfly Act III) (1960) Orchestra of the Bolshoi State Academy Theatre
Pyotr Tchaikovsky |
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Boris Tchaikovsky "Lyrics of Pushikin" 1.Echo 2.A gift unneeded. 3.Talisman 4.To the poet 5.Your image 6.If you are deceived by life 7.Work 8.I do not value highly Piano: Boris Tchaikovsky |
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Katerina
Izmailova (Dmitry Shostakovich) |