ガリーナ・ヴィシネフスカヤ
Galina Vishnevskaya

 



 

ガリーナ・ヴィシネフスカヤさんは2012年12月11日死去されました。86歳でした。
第二次世界世界大戦、その後の東西冷戦下のソ連を生き抜き、まさしく動乱の20世紀を代表するソプラノ歌手であったガリーナ・ヴィシネフスカヤさんが亡くなりました。「ガリーナ自伝」にはガリーナ さんのたくましい生き様が語られています。歴史の生き証人がまた一人亡くなりました。ご冥福を祈ります。

記録映画「人生の祭典」日本上陸、ロストロポーヴィッチ氏が死去されました。

2007年4月21日「ガリーナ・ロストロポーヴィッチ」の人生を記録したドキュメンタリー「人生の祭典」が日本で封切られました。 私も初日に見に行ってきました。ロストロポーヴィッチと夫人ガリーナの人生を振り返った映画ですが、ロストロポービッチの映像が大半を占めていました。その一週間後の4月28日 、ロストロポーヴィッチの死が伝えられました。映画の中では相変わらず陽気で元気な姿を見せていましたが非常に残念です。
 
インタビュー記事「最初の報酬は一杯のヴォッカと一皿のスープでした」 (勝手に翻訳)

ガリーナ・ヴィシネフスカヤへのインタビュー記事の日本語訳。2005年12月のロシアの新聞「Times News」記事を勝手に翻訳しました。エフゲニーナ・ウルチェンコ(Yevgenia Ulchenko)さんの質問にガリーナが応えたインタビュー記事です。2006年はガリーナが80歳の誕生日を迎え、ムスチィスラフ・ロストロピーヴィッチとの結婚50周年の年にあたりました。
(G):ガリーナ・ヴィシネフスカヤ
(Y):エフゲニーナ・ウルチェンコ

(Y)貴方は、戦争、封鎖、空腹、貧乏生活、国外追放などを経験してこられたが、それらが貴方の性格および運命にどのように影響を及ぼしたと考えますか。
(G)「性格は
運命である」と言われます。 戦争や空腹、愛する者を失うこと等を経験することは私の運命でした。レニングラード封鎖は私が人間の価値を理解することの助けになったし、人間がどうあるべき考える 機会を与えてくれました。それら全てを経験することを通して、人生の全ての事を「在るべき場所」におさめることができるようになったのだと思います。

(Y)「苦しみ」は本当の 「大人の人間」に成ることに、あるいは人生で成功することに必要だと思いますか。
(G)人生が良い試練を与えてくれれば人間はより良く考えるようになります。私はこれまでの人生を大体において静かに受け入れていきました。自然な成り行きで結婚しました。 それだけです。

(Y)貴方は25歳でチャイコフスキー作曲の「エウゲニー・オネーギン」の「タチアナ」と、ベートーベン「フィデリオ」の「レオノーラ」でボリショイ劇場にデビューしましたね。音楽学校には行かなかったのですね。

(G)ドイツとの戦争が始まってレニングラードが「包囲都市」になったときすべての学校は閉鎖されてしまったのです。
従って舞台が私の音楽学校だったのです。私の教師および同僚歌手に限って言えば幸運でした。そして当然のことながらオペラ監督のポクロフスキー(Pokrovsky)との出会いは重要でした。彼との出会いが 無かったならば私はオペラ歌手のキャリアを持ってなかったと思います。そしてそれよりずっと以前、9歳になった時に私は何枚かのグラモフォンのレコードを プレゼントされました。それはチィアコフスキーのオペラ「エウゲニー・オネーギン」全曲のレコードでした。私はそのオペラを暗記して全てのアリアを朝から晩まで歌っていました。女性パート全ては勿論 のことレンスキー(Lensky)、オネーギン(Onegin) のアリアもです。ボリショイ劇場で歌うようになる前に私はオペレッタ劇場で働きました。それ以前の戦争の間はバルト海の船員のために軍艦や潜水艦の舞台で歌いました。私の最初の報酬は一杯のウォッカと一皿のスープでした。都市封鎖の中での一杯のウォッカです。 どれくらいのカロリーであったか! … それがその当時の生活でした。

(Y)貴方は20年以上の間ロシアの代表的なオペラ劇場で歌ってきました。西側に亡命した後のキャリアについてはどのように考えていますか。
(G)私達はすべてを新たに始めなければなりませんでした。夫のロストロポーヴィッチと私の全財産をロシアに置いてきました。私の最後のステージは1982年にパリのグランドオペラにおける「エウゲニー・オネーギン」でした。私は自分のキャリアのまさにピークの時にオペラを離れましたが、その決断は自分にとって大変満足なものでした。歌手が年輪を重ね自分の声を失っていく 中で必死になってステージに立とうとする光景を見るのはとても悲しいことです。滑稽な光景でさえあります。私は1955年から1974年まで頻繁に西側で歌っていたので西側ではよく知られていました。私は世界の主要なオペラ劇場で歌いました。従って西側には特別に新しいことは何もなかったでのす。私は単に私の歌のキャリアを続けただけでした。おそらく人生を2つの違った世界の部分に分割することは容易ではないでしょう。何故ならそれぞれの世界においてもひとつ家庭をもっているのですから。私はパリにおいては「エッフェル塔」および「Bois de Boulogne」からそれほど遠くない「Georges Mandel」通りに住んでいますが、当然ながら頻繁にペテルブルグとモスクワを訪れます。

(Y)あなたの本当の家はどこにあるのですか。
(G)当然ロシアです。 私達は決してロシアから移住しようとは考えていませんでした。ロシアからの追放は大きな衝撃でした。しかし私達は外国でかなり裕福になりました。全てのことがこのような結果になったことについて神に感謝しています。私達が祖国から追放されたのは裕福になるためでは 無く疲れ果てて死なせようとする目論見だったのですから。ロシアに戻ってきてからのことですが、私はKGBの本部でブレジネフ、アンドロポフ、スースロイ(Brezhnev、Andropov、Suslov)および他の人々が署名したロストロポーヴィッチと私を迫害するために命令した極秘書類を見せられました。その命令は亡命生活している間ずっと私達に付いて回っていたのでした。しかし私はすべてを許しました。もちろん忘れはしませんが。多分私はより賢くなったのだと思います。結局のところ祖国 とは体制だとか権力だとか政府などでは無いのです。

(Y)ロシアを離れた時に祖国へ帰りたいという気持ちは大きかったのですか。

(G)私はノスタルジアを感じたことはありませんでした。決して。私は怒りの気持ちで一杯でした。気違いのように働いていましたから。体制への反抗心と怒りで私は朝から晩まで働きました。ノスタルジアを感ずる時間などありませんでした。

(Y)祖国に最初に戻ったときにはどこに行ったのですか。
(G)私達は墓地に行ってショスターコーヴィッチ(Dmitry Shostakovich)の墓を訪れました。彼はずっと私達の親友でした。私達は隣人同士で休日とか特に大晦日には一緒に過ごしました。ロストロポーヴィッチは「Dmitryが生きていたら、私は彼の前に 膝まづきずっとそうしているだろう」と言っています。私達は天才の隣に住んでいて、それが当然だと思っていました。今日ショスターコーヴィッチは世界で最も有名な作曲家のひとりです。毎日いいえ毎時間彼の作品が 世界のどこかで演奏されているのです。

(Y)今の年齢になってどのようなお気持ちですか。
(G)すばらしいことです。もし若者が動けなくなったら悲劇でしょう。若い歌手が彼の声を失えばそれは破滅です。しかし年を経るにしたがって何かを失い、それと同時にその失ったものより遥かに大きなもの得ていくことは普通のことだと思います。私は 後10年間は歌い続けることができたかもしれない。しかしオペラのソプラノ歌手にとって年齢は非常に重要なのです。私は決して自分自身が60歳でステージに出ようとは思いませんでした。今でも歌えそうに見えますが私はずっと自分を厳しく見つめてきました。何人かの人々は私になぜ歌わないのか尋ねます。私は自分自身について、そして私の仕事に関してずっと厳しく考えてきました。私は100%、更に500%の確信が得られるまではステージに上りませんでした。しかし、結局私はステージに上ることが苦痛になってきて、ステージが私に喜びをもたらさなくなったのです。そうして止めたのです。

(Y)何人かの「VIP」が貴方に言い寄りましたね。その一人がブルガーニンですね。

(G)その時彼は総理大臣であり私はロストロポーヴィッチと既に結婚していました。彼は私にソビエトVIP流のやり方で言い寄ってきました。彼は私に車を送りつけ、彼の別荘に私の夫とともに招待しようとして、別荘に行く車の中で自分が愛情を持っていることをはっきり言ったのです。その時ムスチラフはまさに私の横に坐っていたのでした。別荘に滞在している間私達がウォッカを飲んで 寛いでいる間もこうした求愛宣言が続きました。それは彼らのやり方なのです。当然ですが他の取り巻きや多くの友人がいました。 しかし芸術家は注目されることが必要なのです。自分の関係者だけからでなく他の人からも賞賛の言葉を聞きたいと思うのです。演奏の後にレストランで夕食をとったり、レセプションがあったりしました。朝まで眠らずに過ごすこともありました。しかし私はそれが重要なことだとは考えていませんでした。

(Y)ロストロポーヴィッチと結婚した後、貴方は後なぜ彼の姓を名乗っていないのですか。
(G)私は結婚する前にボリショイ劇場において歌手としての名声を確立していました。それが唯一の理由でした。しかし私達が結婚登録しようとしたときにロストロポーヴィッチがヴィシネフスカヤ(Vishnevskaya)の名前を名乗ることが提案されました。 彼は当然断りました。役所の人は驚きましたが私達はそれぞれ自分自身の名前を持ち続けることにいたのです。

(Y)貴方と貴方の夫は多くの慈善事業をサポートしています。しかしそのことについては多くは語られていません。それはどんな事業ですか。権力は何か助けになっていますか。 
(G)私の夫と私はニッジィ・ノブゴロド(Nizhni Novgorod)にある地域の子供のための施設を支援しています。そしてセントペテルスブルク(St. Petersburg)の小児病院設立のため基金を始めました。また私の故郷であるクロンシュタット(Kronstadt)の児童養護施設も支援しています。今ではそこに百人以上の子供が住んでいます。そのような施設はピーター大帝の時から、冷戦の時代も含めて嘗てなかったものです。私達も協力していますが米国に貧乏な子供を世話するための民間の寄付による医療のために基金があります。私達はまたペテルスブルク、バッチェ(Vache Nizhni Novgorodの近くで)およびオーレンブルク(Orenburg)の病院を支援しています。最近アメリカの人達が私達に肝炎ワクチンを与えてくださり約150万の人々が予防接種を受けました。そのワクチンは一人当たり100ドルします。そんなお金を私達の国はいつになったらえることができるでしょうか。私達はまたバッチェ(Vache)の産院の建設のためにお金を寄付しました。


 
(Y)あなたはしばしば権力に反抗してきました。私が知っている限りでもあなたはソビエト国を復活させようとする動きに反対してロシア大統領に手紙を書いていますね。
(G)はい私達はそのことで大統領に手紙を書きました。私達はソビエト時代に生きていた人々気持ちとか人々の考えを政府が全く尊重していないことに驚きました。私達にとってソビエト国歌とはボルシェビキの国歌であり、スターリンの国歌でした。それが後のソビエト国歌となったのです。ロシアの国歌 がそれではいけません。彼等は何年か待つべきでした。彼等は1億人の国民から国歌を作曲できる人間を探しだすことができなかったのでしょうか。彼等はこの平和な時代に国歌のもつ性質として、数百万人の拷問を受け て殺された人々の記憶を逆撫ですることを選んだのでした。そして私達も音楽と言論とともに国を追放されたのでした。

(Y)貴方はエリツィンの家族と親しいですね。ロシアの新しい大統領をどう思いますか。
(G)私はテレビで彼を見たときにエリツィンを一目で好きになりました。彼はロシアのため他のものとは比べることのできない重要な事をしました。 彼は少々演劇的なタイプでしたが紛れなく純粋なロシア人でした。私は彼の大きな身体から「Khovanskyお父さん」と呼んでいました。実際彼の健康状態が彼を邪魔しました。しかしどうすることもできませんでした。彼は素晴らしい家族を持っていました。彼の妻のナイーナ(Naina)は非常にチャーミングな女性でした。プーチンと私はシラク大統領のディナー・パーティで会いました。彼はロシアの未来に対する自分自身の考えを 持っているようでした。どんな考えか。そうですね。生きること、学ぶこと。私は新しい権力には詳しくありません。具体的なビジネスの話ですとかは私に聞こえてこないし、遠いところの話です。

(Y)貴方はステージを去りました。現在ステージで活躍している人達に関して貴方はどう思いますか。
(G)実際「偉大な歌手」はここロシアでも西側においても現われていません。少なくとも私は出会ったことはありません。私が個人的に知りあい、一緒に歌った歌手では「プラシド・ドミンゴ」が挙げられるだけです。彼は堂々とした俳優で 勿論すばらしい歌手であり芸術家でそしてハンサムです。彼は60歳を超えているけれど立派に歌っています。女性歌手に関しては残念ながら私は名前を挙げることができません。もちろん良い声の人はいますが私がステージで聞きたいとは思いません。より上手に歌う人、そうでもない人がいますが「過去の大歌手に匹敵する人」はいません。私の年代の歌手では、レナータ・テバルディ、ジョーン・サザーランド、レオンティーヌ・プライス、マリア・カラスが好きでした。


(Y)ボリショイ劇場のオペラの歌手達をどう思いますか。

(G)私はボリショイ劇場に頻繁には行きませんがボリショイは私にとって非常に大切なオペラ劇場です。私は私の最も充実していた時代と強い思いをボリショイに捧げました。従ってそれについて辛い言葉を言いたいとは思いません。私はボリショイの状態が満足できるレベルから遠いことは分かっています。トップ歌手 達のレベルは低くトップスターはいません。私の意見では経済的な理由のためにそうなったものだということです。当たり前のことですが、俳優、歌手達は自分達の家族を支えるために十分報酬を得なくてはなりません。引っ張りだこ になった歌手は全て外国に行ってしまいロシアの劇場 には客が入りらなくなります。

(Y)劇場を一杯にするためにはどうすればいいと思いますか。
(G)私は大胆な取り組みが必要であると考えます。保管庫に行って帝国劇場の契約書を取ってくることが必要です。ボリショイ劇場はかつて帝国劇場でしたし現在でもそうあるべきです。 ボリショイ劇場は私達 ロシア国民の自慢であり、そこの音楽家には特権的な地位が与えられるべきなのです。そこの歌手および音楽家は特別な条件が定められ高額な報酬が支払われるべきです。少しだけしか歌わない数百人の歌手をなぜ雇っておくのでしょう。そして それ以外の優秀な歌手は全て年金のような低いサラリーを受け取るだけにしておくのでしょう。西側のようにソロ歌手達は約40人程度で十分で、彼等は十分に支払われるようにすべきです。そうすると誰もボリショイ劇場を去ろうとはしません。契約のシステムを転換する時期にきています。その他に方法はありません。

(Y)以前モスクワにたった2つのオペラ劇場があっただけですが今は10以上あります。 この状況をどう思いますか。
(G)世界中のどこでも今余りにも多くのオペラ劇場があり過ぎます。ドイツでは殆ど全ての村に自分達のオペラ劇場を持っています。これはひどすぎます。すべての劇場が上手な歌手を抱えることは不可能ですし、それほどでもない歌手をそろえることも難しいでしょう。更にオペラは一般大衆のためのものではありません。聴衆はきちんとオペラを知ってオペラを十分理解して聞くべきです。聴衆は雨を凌ぐために劇場に来るべきではなく、僅かな入場料で偉大な芸術のひとかけらを聞きにくるべきではないのです。

(Y)貴方にとって家族と一緒にいることはどれくらい重要であったのでしょう。やがて貴方は私達世代が生んだ最も傑出した音楽家の1人と結婚50周年を迎えようとしています。
(G)はい次の5月15日が私達の金婚式です。 愛、夫、子供、家族、それはあらゆる女性がその職業に関係なく必要としているものです。私達には今6人の孫がいます。


(Y)貴方はモスクワでオペラ歌手センターを開設しました。そのような学校を組織することは貴方が長く大切にしてきた夢だったそうですね?
(G)それは私の夢だけではありません。昔からの多くの芸術家の夢でした。シャリアピンもそのようなスタジオを設けようと考えていました。彼は革命の前にクリミアのグルズフ(Gurzuf)にひとつの岬を購入しました。彼はそこに若い俳優および歌手のために音楽センターを作ろうと考えていました。しかし彼はロシアを去ることとなり、大家族を抱えて移住しました。全く最初から始めなければならなくなってしまいました。現在どこにもこのような学校がないので 、私は全く暗闇の中を手探りで仕事を始めています。私は「歌手をステージに立てるようにする」ことを教育の目標に置いています。我が国の若い歌手は音楽学校を出てもステージでどのように歌うのか全く分かっていません。ステージでどのように振舞うのか何の技術も経験もないのです。若い歌手達は音楽学校を出ると全く自分一人で考えなくてはならないのです。


(Y)貴方はよくニコライ・バスコフ(Nikolai Baskov)をどう思うか意見をきかれると思います。最近彼が貴方に自分の仕事への意見を変えるように頼まなかったらこのような質問はしていません。ボリショイ劇場は彼との契約を更新することを断りましたが彼はエウゲニ・オネーギンのレンスキーの役を歌い続けるつもりのようです。

(G)
彼はバラエティーショーで歌っていますが、彼にはそれを続けてもらうのが良いでしょう。しかしそれがオペラと何の関係があるのでしょう か。彼はボリショイ劇場で仕事を持っていないのです。ムスリム・マゴマエフ(Muslim Magomayev)を例に考えてみましょう。彼は非常に良い声を持っていてバラエティーショーで歌っていますが、この二つの事をごちゃごちゃにしないだけの考えを持っています。当然彼はオペラ歌手になりたいという望みを持っていました。そしてその夢は実現していたかもしれません。しかし彼は決心したのでした。今日のバラエティの歌手について考えて見ましょう。私は当事者の人達に考えてもらいたいと思うのです。どうかボリショイで歌わないでほしい。ボリショイのドアは彼等の 面前で閉められ、そこにガードマンを立たせて置いてください。私は歌の仕事に対してより真剣な態度を取るようにアドバイスしたい。今日バラエティー・ステージに出て明日にボリショイ劇場でレンスキー(Lensky)を歌うことは許されないのです。そして非常に甘すぎる声(so sickly sweet)は単に下品であるだけです。
歌うことの文化がなければならないのです。大衆文化は私達の子供や孫達を堕落させることがあります。テレビをつけると野蛮な叫び声を聞き、演奏者の口に接しているようなマイクロフォンを見ます。それは堪えがたいことです。これは才能のない姿であり、いまわしい惨めな姿です。若い歌手によって叫ばれる言葉は狂気から発せられるようで、それは純粋に無意味であるように思えます。人間はそうであってはならないし、あんな馬鹿げたものを見るべきではありません。今日人々がクラシック音楽を音楽学校かチェイコフスキー劇場でしか聴くことしかできないのは悲しいことです。上等なロマンチック、上等なダンス、ロシア伝統音楽はどこにもありません。どこに行ってしまったのでしょう。この状態が変わらなければ私達はやがて月に遠ぼえしている動物のようになってしまうでしょう。人間を動物と区別したものは文化なのですから。

(Y)貴方は幸せな人であったと思いますか。 十分に自己実現することに成功したと思いますか。
(G)幸福とは不幸なことが無かったことを意味します。私の一生の間に私は自分の運命に不満を抱いたこととか、また少しの時間も失望したことはありませんでした。しかしあれもできなかった、これもしなかったということも明らかです。しかし私はオペラセンターでの仕事に夢中になっています。他のことを夢みることなど不可能です。
以上

ガリーナ・ヴィシネフスカヤについて
 

実はガリーナ・ヴィシネフスカヤの事が気になってはいたのでした。世界的なチェリストのムスチラフ・ロストロポーヴィッチの奥様ですが 、何故か旦那と同等かそれ以上の存在感があるのです。夫婦で旧ソ連から追放され西側に移ってきました。西側に亡命してからガリーナがロストロポーヴィッチのピアノ伴奏で歌曲のコンサートを開いていた事は何かで読んで知っていました。 大昔の記憶ですが、来日した時にロストロポーヴィッチのピアノ伴奏による歌曲のリサイタルの模様をテレビでみた覚えがあります。何を歌ったのか全く憶えていませんが、世界一のチェリストに伴奏させるなんて「凄い」歌手なんだろうなと考えた記憶があります。そして彼女はかつて は旧ソ連が誇ったボリショイのプリマであったことを知ったのでした。

話は飛びますが、私は現代の「ワレリー・ゲルギエフとキーロフ歌劇場管弦楽団」と旧ソ連の「エウゲニー・ムラビンスキー・レニングラードフィル ハーモニー」を比較して考えることがあります。現在で飛ぶ鳥を落とす勢いの指揮者ワレリー・ゲルギエフの活躍はめを見張るものがありますが、旧ソ連時代の 古くなったムラビンスキーの演奏もそれに劣らず素晴らしいと思います。むしろムラビンスキー方が冷戦時代の緊張とソ連体制化の抑圧されたエネルギーが凝縮していて 、人間的な生々しさを感ずるのです。この図式と同じで現在の「ゴルチャコーワ」や最近の「ネトレプコ」のように世界で活躍する歌手を輩出しているキーロフオペラと旧ソ連のボリショイオペラ ・レニングラードオペラを考えると、多分現在の歌手達を凌駕する凄い人がいたのではないかと考えたのです。多分そのひとりが追放されたソプラノ歌手ではないかと・・・ 。 
この 論理は多分正解であったと思います(知らなかったのは私だけかもしれませんが)。EMIから復刻されたムソルグスキー、チャイコフスキーなどの歌曲、そして韓国のCDでヴェルディ、プッチーニ(蝶々さん)、チィコフスキーのアリアの2枚のCDを捜し出して聞きました。

ガリーナの歌声は凄いです。「声」もそして「心」が凄いです。 ガリーナの声は低音から高音まで同じような声質をしています。高級な外車のエンジンが梗塞で走っている高い回転数からでも簡単に加速できるような感じです。それとロシア語は分かりませんが分からないなりに 歌に説得力があると思えます。多分「詩」の意味が良く考えられていると同時に発声法(子音)が素晴らしいので聞き取りやすいからでしょう。ガリーナは正規の 音楽教育を受けていないということですが、こういう歌手が出てくるところに「ロシア」(あえて旧ソ連とは言いません)の底力があるのだと思います。

息子に頼んで大学の図書館から「ガリーナ自伝」(みすず書房)も借りてもらって読みました(この本は定価5200円もして浦和の図書館には無かったのです 。この後中古本を入手しました) 。この伝記は大変面白いです。ガリーナは旧ソ連のスターリンの死の直後からソ連崩壊前夜まで戦い続けていたのです。彼女の歌の凄さの背景が分かりました。因みにこの本は1987年出版で1990年のソ連崩壊前です。その本の中で「ロストロポーヴィッチが1970年に当局を批判した公開質問状の中に20年後の体制変更を予感させる記載がある」と言っています。とても興味深いです。とにかく、捜していたソプラノ歌手に出会えてとても嬉しい感じです。ガリーナ自伝からヴィシネフスカヤの略歴を作りました。

ガリーナ・ヴィシネフスカヤの略歴(ガリーナ自伝等より)
1926年 共産主義者の父と、ジプシーとポーランド人の混血の母の長女としてレニングラードに生まれる。3歳の時に両親が離婚したので父方の祖母に育てられる。小さいころから歌の好きな子供であった 。
1929年 トロツキー追放(1940年暗殺者によって殺される)。これ以降スターリンの独裁体制が堅固なものとなっていく。
1936年 10歳の誕生日に母に会い「エヴゲニー・オネーギン」のレコードと蓄音機をもらい初めてオペラを聞く。 このレコードでエウゲニーオネーギンの全パートを暗記することとなる。
1937年 ショスターコービッチ交響曲第5番初演。この作品により当局はショスターコービッチの名誉を回復。一方スターリンの知識人・富農への迫害が頂点に達する。(〜38年)
1941年 ドイツ軍がソ連に侵攻しレニングラードはドイツ軍によって封鎖される。
1942年 封鎖されたレニングラードに取り残され飢餓状態のところを救われて女性防衛隊に入隊する。
1943年 ソビエト軍がレニングラード封鎖を解除する。ヴィボルク文化会館の舞台照明係助手の職を得る。その後リムスキー・コルサコフ音楽院に入学するも良き師にめぐり合えず退学。
1944年 レニングラード州オペレッタ劇団に入団。そこの監督マールク・イリイチ・ルーピンと結婚(18歳)。長男を出産するも二ヶ月半で死亡。
1948年 劇団がソヴィエトのレパートリーを上演するようになって退団。コンサートの仕事を開始。夫マールクは彼女のマネージャとなる。この間に声楽教師「ヴェーラ・ニコラーエバナ」に出会いソプラノの発声法を習得する。この年プロコフィエフ、ショスターコーヴィッチが再び批判される。
1951年 肺結核を発病するも「ストレプトマイシン」で命を取り留める。
1952年 ボリショイ劇場の青年グループのコンクールを受験。アイーダを歌って採用される。ベートーベン「フィデリオ」のレオノーレの役を与えられる。この頃のボリショイ劇場は連邦随一の劇場であったが同時にスターリンの強い影響下に置かれていた。
1953年 「エヴゲニー・オネーギン」のタチアーナを歌う。プロコフィエフ、スターリンが死亡。
1954年 「フィデリオ」に出演、レオノーレを歌う。ショスターコーヴィッチと交友を深める。
1955年 ロストロポーヴィッチと出会う。チェコスロバキア、ユーゴスラビアに巡業する。この旅でロストロポーヴィッチと親密になり結婚。
1956年 フルシチョフがスターリン批判(第20回党大会)。この年にロストロポーヴィッチとの間に長女誕生。
1958年 第一回チャイコフスキーコンクール開催。この成功によってショスターコービッチの名誉が回復される。この年次女が生まれる。
1960年 初めてのアメリカ演奏旅行。カーネギーホールのコンサートは大成功。
1961年 メトロポリタンで「アイーダ」「蝶々婦人」を歌う。アメリカ公演はその後1965年、67年、69年の3回 。この年のエジンバラ音楽祭出演の際にベンジャミン・ブリテンを知る。
1962年 ブリテンの「戦争レクイエム」のソロに招かれるが、ソヴィエト当局に反対されて出演できず。翌年ロンドンで録音。 (テノールはフィッシャーディースカウ)
1964年 ボリショイオペラのミラノ公演。「スペードの女王」「戦争と平和」に出演。その後ミラノスカラ座の「トゥーランドット」で 「リュー」を歌う。
1966年 ソヴィエト社会主義共和国連邦人民芸術家の称号を与えられる。この年ショスターコービッチと協演。 映画「カテリーナ・イズマイロバ」に主演。
1968年 ソヴィエト軍がチェコ侵攻。直後にロストロポーヴィッチはロンドンで「ドヴォルジャーク」のチェロ ・コンチェルトを演奏することとなる。この年「ソルジェニツィン」と交友を結び、彼 に自分達の自宅の「離れ」を提供する。
1970年 カラヤンと「ボリス・ゴドゥノフ」を録音。ソルジェニツィンがノーベル賞受賞。ソルジェニツィンを擁護し自宅に匿う。ロストロポーヴィッチがソ連 の4つの新聞社編集長へ「公開質問状」を発表。この中で彼は「例えば20年後に今日の新聞を恥ずかしそうに隠す必要ないようにするために・・・」 として1990年のソ連崩壊と符号するような記述を行っている。
1971年 ボリショイで「トスカ」を歌う。レーニン賞を受賞。
1973年 ソルジェニツィンが追放される。KGBの監視が強まる。当局から圧力で演奏機会が極端に減少。
1974年 アメリカの「ケネディ上院議員」がブレジネフに直接談判。ガリーナとロストロポーヴィッチがソビエト出国。
1978年 ソビエト連邦議会はガリーナとロストロポービッチの市民権を剥奪。
1982年 最後の公演として「エウゲニー・オネーギン」タチアーナをパリで歌う。
1984年 「ガリーナ自伝」発表。ロシア語の出版は1991年
1990年 ゴルバチョフ政権がガリーナとロストロポーヴィッチの市民権を復活。
2002年 ガリーナオペラ学校をモスクアにオープン。
2006年

ガリーナ80歳。ロストロポーヴィッチとの金婚式。2本の映画に出演。

ガリーナ・ビシネフスカヤのCD・DVD (家にあるだけ)



 

ベンジャミン・ブリテン作曲 「戦争レクイエム」

ピーター・ピアーズ(Ten),ヴィシネフスカヤ(Sop),ディースカウ(Bar)
ロンドン交響楽団他、ベンジャミン・ブリテン指揮. (1963年1月録音)

ブリテンとヴィシネフスカヤの出会いは1961年のオールドバラ(英)音楽祭であった。ロストロポーヴィッチ伴奏によるヴィシネフスカヤのコンサート聴いたブリテンが、特にヴィシネフスカヤの歌を作曲中の「戦争レクイエム」に入れようとしたものである。ブリテンは第二次世界大戦で被害の大きかった「イギリス・ドイツ・ソ連」の歌手を招くことを念頭において作曲していたのであった。ヴィシネフスカヤが英語で歌った経験がないことを知ったブリテンはソプラノのパートだけを「ラテン語」で書くことになった。初演は1962年5月30日にコヴェントリー寺院で行われることとなった。しかしソ連当局の参加不許可によってヴィシネフスカヤは初演に参加することができなかった。ヴィシネフスカヤはその一週間前までイギリスのコヴェントガーデンで「アイーダ」を歌っていたのであるがソ連当局は帰国命令を出したのであった。そして翌年1963年の1月に漸くロンドンのアルバートホールで歌う機会を与えられたのであった。(ガリーナ自伝より)
 



 


Mussorgsky
1.Hopak (recorded in 1976)
2.Lullaby (recorded in 1976)
3.Darling Savishana (recorded in 1976)
4.Songs and Dances of Death (orch by Shostakovich) (recorded in 1977)

Rimsky-Korsakov
1.The rose and the nightingale (recorded in 1979)
2.The heavy clouds disperse (recorded in 1979)
3.More sonorous than the lark's singing (recorded in 1979)
4.Lullaby of the Sea Princess (recorded in 1977)
5.Marfa's Scene and Aria (recorded in 1977)
6.Lyubasha's Aria (recorded in 1977)

Tchaikovsky
1.Lel's Song  (recorded in 1977)
2.Was I not a little blade of grass?  (recorded in 1976)
3.Cradle song  (recorded in 1976)
4.Why?  (recorded in 1976)
5.Amid the din of the ball  (recorded in 1976)
6.Again, as before, alone  (recorded in 1976)

Piano & Direction: Rostropovich
Orchestra: London Philharmonic Orchestra
 



 


Sergei Rachmaninov

1.The Night is mounful
2.Oh, never sing to me again
3.Music
4.Spring Waters
5.Vocalise

Michail Glinka
1.Doubt
2.I remember the wonderful moment
3.How sweet it is to be with you!
4.To her
5.No sooner did I know you.
6.Night in Venice
7.The Lark
8.Barcarolle

recoded in 1976
Piano: Rostropovich
 



 


Giuseppe Verdi

1.Aida's aria (Aida Act I)
2.Aida's Romance (Aida Act II)

Giacomo Puccini
1. Madame Butterfly's Monologue (Madam Butterfly Act II) (1960)
2.Final Scene (Madam Butterfly Act III) (1960)
Orchestra of the Bolshoi State Academy Theatre

Pyotr Tchaikovsky
1.Iolamthe's Arioso (Iolanthe Act I) (1963)
2.Maria's Lullaby (Mazeppa Act III) (1963)
3.Natasha's Arioso (Oprichnik Act I) (1963)
4.Kuma's Arioso (Enchantrees Act IV) (1963)
5.Liza's Arioso (Queen of Spades Scene II) (1963)
6.Liza's Aria (Queen of Spades Scene VI) (1963)
Orchestra of the Bolshoi State Academy Theatre

7.Final Scene (Evgeny Onegin Act III) (1961)
Grand Symphony Orchestra of State Radio and Television
 



 

Boris Tchaikovsky "Lyrics of Pushikin"
1.Echo
2.A gift unneeded.
3.Talisman
4.To the poet
5.Your image
6.If you are deceived by life
7.Work
8.I do not value highly

Piano: Boris Tchaikovsky



 

Katerina Izmailova (Dmitry Shostakovich)

1966年レニングラードで撮影されたオペラ映画。この映画撮影に関しては「ガリーナ自伝」にかなり詳しく書かれています。ソビエト政府の検閲によってオペラ歌詞はずんぶん変更されているし、撮影の際しても濃厚な「濡れ場」は非常に気を使って撮影されたとのことです。ショスターコービッチはこのオペラ の映画化において「ガリーナ」に主演を強く要望した。ガリーナの歌が各シーンにマッチしていて、演技も立派なので、殆ど歌だけで進められる映画が少しも不自然でないのが素晴らしいです。最後の湖で恋敵のソニェートカと一緒に水の中に沈むシーンは冬のフィンランド湾で取られたのだそうです。オペラ歌手がそのまま映画に出演すること自体が凄いことですが、このシーン等は改めてガリーナの演技力を知らされます。カラヤンはこの映画をみて、オペラ映画の最高傑作だと評したとのことです。

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